だいぶ前に、取り上げた神楽坂【NO.35】ですけど、最近、ブラタモリで取り上げられていたこともあり、番組の復習も兼ねて今回は2度目の記事にしてみました。(”その2”とあれば第二弾ということですね。)

写真1
まずは飯田橋駅前から神楽坂方面を見たものです。(写真1:すこし古い写真です。)
ブラタモリでもちょうど同じ場所に立っていろいろ話をしていた場所でもありますね。
ちなみに番組では、写真1のすぐ背後にある牛込御門との関係を探っていて、牛込御門や江戸城外堀(写真1の真下にあります)が作られた1636年頃に同じくして神楽坂も御成道として整備されたのでは?という説を披露していました。

画像1
こちらは、広重による「牛込神楽坂之図」という浮世絵で、ブラタモリでも参考資料で出ていましたね。(画像1)
神楽坂の中腹あたりから坂下方向を見ているものです。
画像1の奥に見えているのが、当時の牛込御門らしいので、写真1でいえば、ちょうど僕が立っていたあたり(飯田橋駅前)ということになりますかね。
それにしても神楽坂は昔から道幅の広い坂道だったんですね。

画像2
こちらも古い絵図で、江戸時代の神楽坂を描いた江戸名所図絵です。(画像2)
この絵図でもかなり道幅が広く描かれていますね。
ちなみに、最初のほうで、「神楽坂も御成道として整備されたのでは?」と書きましたけど、これは番組を見た方はわかるかもしれないですが、みていない方にも説明しておくとですね、ここは、画像2でいえば、右上奥にあたる場所に徳川家の側近だった酒井忠勝 (小浜藩主)の広大な大名屋敷があり(絵図で描かれているのは毘沙門堂のようですが、大名屋敷はさらにその奥にあったようで、今の場所で言えば、東京メトロ・神楽坂駅のすぐ南側あたりです)、徳川家光が江戸城から大名屋敷に向かうため頻繁に通った記録があり(番組では145回と言っていました)、そのため御成道とも言われているのですね。

写真2
最後はつい最近神楽坂を訪れたときに撮ったものです。(写真2)
神楽坂の坂下からの眺めですね。
とくに変わった様子もなく、再開発のきざしもなく、落ち着いた坂道風景を楽しめましたね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図:東京都新宿区神楽坂
関連リンク:
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[御成道の記憶]

写真1
まずは飯田橋駅前から神楽坂方面を見たものです。(写真1:すこし古い写真です。)
ブラタモリでもちょうど同じ場所に立っていろいろ話をしていた場所でもありますね。
ちなみに番組では、写真1のすぐ背後にある牛込御門との関係を探っていて、牛込御門や江戸城外堀(写真1の真下にあります)が作られた1636年頃に同じくして神楽坂も御成道として整備されたのでは?という説を披露していました。

画像1
こちらは、広重による「牛込神楽坂之図」という浮世絵で、ブラタモリでも参考資料で出ていましたね。(画像1)
神楽坂の中腹あたりから坂下方向を見ているものです。
画像1の奥に見えているのが、当時の牛込御門らしいので、写真1でいえば、ちょうど僕が立っていたあたり(飯田橋駅前)ということになりますかね。
それにしても神楽坂は昔から道幅の広い坂道だったんですね。

画像2
こちらも古い絵図で、江戸時代の神楽坂を描いた江戸名所図絵です。(画像2)
この絵図でもかなり道幅が広く描かれていますね。
ちなみに、最初のほうで、「神楽坂も御成道として整備されたのでは?」と書きましたけど、これは番組を見た方はわかるかもしれないですが、みていない方にも説明しておくとですね、ここは、画像2でいえば、右上奥にあたる場所に徳川家の側近だった酒井忠勝 (小浜藩主)の広大な大名屋敷があり(絵図で描かれているのは毘沙門堂のようですが、大名屋敷はさらにその奥にあったようで、今の場所で言えば、東京メトロ・神楽坂駅のすぐ南側あたりです)、徳川家光が江戸城から大名屋敷に向かうため頻繁に通った記録があり(番組では145回と言っていました)、そのため御成道とも言われているのですね。
[現在の神楽坂]

写真2
最後はつい最近神楽坂を訪れたときに撮ったものです。(写真2)
神楽坂の坂下からの眺めですね。
とくに変わった様子もなく、再開発のきざしもなく、落ち着いた坂道風景を楽しめましたね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図:東京都新宿区神楽坂
関連リンク:
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