ひさびさに明神男坂【NO.163】を訪れてみると、坂の碑の説明が変わっていたので、今回はそのときのことでも。

写真1
坂上あたりの様子です。(写真1)
訪れた日はちょうど神田祭がやっていて(というかこの日は神田祭目当てでしたけどね)、ここもいつものひっそりとした雰囲気とは違い、かなりの人が歩いていました。
そして、坂道的にいえば、風景的には変わっていなかったですけど、写真1でも見えている坂の碑が新しくなっていて、内容も変わっていました。
いつものように内容を抜粋させていただくとですね、
『『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が一八二五年から一八二八年(文政八年〜十一年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた『町方書上』によれば、当時高さは四丈余り(約十二m)、幅は二間(約三.六m)、石段数は六八段と紹介されています。明治時代に入ると「明神男坂」と呼ばれるようになりました。』
とありました。
なお明神男坂についてはタイトルにも「その3」とあるように過去にも訪れていて、以前の坂の碑の説明など詳しいことは過去記事を見てもらえればと思いますが、ひとこと変わった点で言えば、昔の坂というか階段の形状の説明が追記されているようでしたね。

写真2
せっかくなので明神男坂【NO.163】からすぐのところにある神田明神の様子でも。(写真2)
神田祭の真っ最中ということもあり、境内には大勢の見物客がいました。
ちなみに神田祭は正確な開始時期は不明らしいですが、少なくとも江戸時代から続く歴史のある祭りで、日本の三大祭りの一つとも言われていますね。

写真3
さらに境内では出店もいっぱいやっていて、賑やかな雰囲気でしたよ。(写真3)
ということで、今回はこんな感じです。
地図:東京都文京区湯島
関連リンク:
[坂上あたりの様子]

写真1
坂上あたりの様子です。(写真1)
訪れた日はちょうど神田祭がやっていて(というかこの日は神田祭目当てでしたけどね)、ここもいつものひっそりとした雰囲気とは違い、かなりの人が歩いていました。
そして、坂道的にいえば、風景的には変わっていなかったですけど、写真1でも見えている坂の碑が新しくなっていて、内容も変わっていました。
いつものように内容を抜粋させていただくとですね、
『『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が一八二五年から一八二八年(文政八年〜十一年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた『町方書上』によれば、当時高さは四丈余り(約十二m)、幅は二間(約三.六m)、石段数は六八段と紹介されています。明治時代に入ると「明神男坂」と呼ばれるようになりました。』
とありました。
なお明神男坂についてはタイトルにも「その3」とあるように過去にも訪れていて、以前の坂の碑の説明など詳しいことは過去記事を見てもらえればと思いますが、ひとこと変わった点で言えば、昔の坂というか階段の形状の説明が追記されているようでしたね。
[神田祭]

写真2
せっかくなので明神男坂【NO.163】からすぐのところにある神田明神の様子でも。(写真2)
神田祭の真っ最中ということもあり、境内には大勢の見物客がいました。
ちなみに神田祭は正確な開始時期は不明らしいですが、少なくとも江戸時代から続く歴史のある祭りで、日本の三大祭りの一つとも言われていますね。

写真3
さらに境内では出店もいっぱいやっていて、賑やかな雰囲気でしたよ。(写真3)
ということで、今回はこんな感じです。
地図:東京都文京区湯島
関連リンク: