NO. 690
坂名:旧松見坂、旧松見坂跡
住所:東京都目黒区大橋
今回は目黒区大橋にある旧松見坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、前回取り上げた松見坂【NO.689】の坂下あたりにあります。
京王井の頭線・神泉駅からなら南東に300m(徒歩なら6分ほど)のところです。

写真1
まずは坂上あたりの様子です。(写真1)
写真1右側の坂道が前回取り上げた松見坂【NO.689】という立地具合でした。
形状的にはけっこうな急坂で右にカーブしながら下っていました。
坂名については、旧松見坂とあるとおり、写真1右側の前回取り上げた松見坂【NO.689】が新しくできた坂に対して、こちらは古くからあった松見坂ということのようですね。
由来については、松見坂【NO.689】でも取り上げましたが、現地に由来などが書かれた坂の碑があり、いつものように抜粋させていただくとですね、
『この坂から、「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた))がよく見えたので、松見坂と呼ばれるようになったといわれる。また、坂の途中に「松見地蔵」があったので 坂の名になったという説もある。昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる 広大な原野があったが,今はその面影もない。』
とありました。

写真2
こちらは写真1でも見えていた坂道に隣接している松見坂地蔵尊の様子です。(写真2)
松見坂地蔵尊と松見坂の関係については、目黒区のHPに記載があり、一部抜粋させていただくとですね、
『坂の途中で、自動車修理工場を営んでいる谷口さん兄弟は、「戦前のこの辺は、じめじめとした湿地で、田んぼが広がり、今の山手通りの立体交差付近からは渋谷一帯が眺望できましたよ。昔、追いはぎが出たという話も聞いたことがあります。それに関係があるかどうかわかりませんが、道の向こう側に、松見地蔵という地蔵様がありましたよ」。この松見地蔵は「目黒町誌」によると、「霊験あらたかなる地蔵」ということで、多くの人が参詣に来ていたという。』
とありました。
また地蔵尊とは?ということで調べてみると、これまた目黒区のHPにて目黒の地蔵尊信仰について記載があり、けっこう長いのでこちらも一部抜粋させていただくとですね、
『わが国には8世紀ころ伝来、平安時代後期の貴族層に広まり、地獄の苦しみから救済してくれるのが地蔵だとされ、鎌倉時代に入ると阿弥陀浄土信仰と融合して、広く民衆に広まっていった。道祖信仰とも結び付き、村の辻々に像が建てられた。また、子どもを救済するという信仰がおこり、子安地蔵となってあらゆる階層に浸透していった。江戸時代に最も盛んとなり、延命地蔵や六地蔵、千体地蔵など各地で地蔵講が催された。(略)本来、地蔵尊は、野道や山道で風雨に曝(さら)されながらも、功徳を求め、心の救いを求める、すがるものなき悲しい衆生に恵みを与えた仏であったので、あらゆる宗派をこえて信仰されたのであろう。目黒でも地蔵尊信仰は盛んである。それぞれに由来や伝説を秘め、お寺の境内や往来の辻々にひっそりとたたずんでいる。』
とありました。
なるほど。
地蔵尊信仰というものがあったんですね。
しかもかなりの歴史ですね。

写真3
中腹あたりから坂下あたりを見てみたものです。(写真3)
写真3左側に松見坂地蔵尊があるという場所ですね。
ちなみに、写真3右側の擁壁の上を前回取り上げた松見坂【NO.689】が並走して通っていて上り坂なんですけど、旧松見坂のほうは下り坂なんですよね。
これはどうやら、写真3奥に空川がかつて横切るように流れていて(今は暗渠?)、そのためこういう下り坂となっているようですね。
なので、もしかしたらですけど、昔の松見坂は、空川に向かって下り、また上る坂道だったのではという可能性も考えられ、その説が正しければ、今の松見坂【NO.689】はかなり形状変更されたのかもしれないですね。

絵図
前回取り上げた松見坂【NO.689】にもでてきた、江戸名所図会「駒場野」(画:長谷川雪旦)です。
現地の坂の碑に由来とともに設置してあったプレート絵の元ですね。
そこでこれまでの歴史を踏まえて、この絵図を見直してみると、写真3でいえば、右奥側方向に駒場野があったというところを鑑みると絵図の坂道はまさに昔の松見坂の様子なのかもしれないなあという可能性が浮かび上がってきたんですけど、実際のところどうなんでしょうね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都目黒区大橋
関連リンク:
坂名:旧松見坂、旧松見坂跡
住所:東京都目黒区大橋
今回は目黒区大橋にある旧松見坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、前回取り上げた松見坂【NO.689】の坂下あたりにあります。
京王井の頭線・神泉駅からなら南東に300m(徒歩なら6分ほど)のところです。
[坂上あたりの様子と坂名について]

写真1
まずは坂上あたりの様子です。(写真1)
写真1右側の坂道が前回取り上げた松見坂【NO.689】という立地具合でした。
形状的にはけっこうな急坂で右にカーブしながら下っていました。
坂名については、旧松見坂とあるとおり、写真1右側の前回取り上げた松見坂【NO.689】が新しくできた坂に対して、こちらは古くからあった松見坂ということのようですね。
由来については、松見坂【NO.689】でも取り上げましたが、現地に由来などが書かれた坂の碑があり、いつものように抜粋させていただくとですね、
『この坂から、「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた))がよく見えたので、松見坂と呼ばれるようになったといわれる。また、坂の途中に「松見地蔵」があったので 坂の名になったという説もある。昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる 広大な原野があったが,今はその面影もない。』
とありました。
[坂下あたりの様子と松見坂地蔵尊]

写真2
こちらは写真1でも見えていた坂道に隣接している松見坂地蔵尊の様子です。(写真2)
松見坂地蔵尊と松見坂の関係については、目黒区のHPに記載があり、一部抜粋させていただくとですね、
『坂の途中で、自動車修理工場を営んでいる谷口さん兄弟は、「戦前のこの辺は、じめじめとした湿地で、田んぼが広がり、今の山手通りの立体交差付近からは渋谷一帯が眺望できましたよ。昔、追いはぎが出たという話も聞いたことがあります。それに関係があるかどうかわかりませんが、道の向こう側に、松見地蔵という地蔵様がありましたよ」。この松見地蔵は「目黒町誌」によると、「霊験あらたかなる地蔵」ということで、多くの人が参詣に来ていたという。』
とありました。
また地蔵尊とは?ということで調べてみると、これまた目黒区のHPにて目黒の地蔵尊信仰について記載があり、けっこう長いのでこちらも一部抜粋させていただくとですね、
『わが国には8世紀ころ伝来、平安時代後期の貴族層に広まり、地獄の苦しみから救済してくれるのが地蔵だとされ、鎌倉時代に入ると阿弥陀浄土信仰と融合して、広く民衆に広まっていった。道祖信仰とも結び付き、村の辻々に像が建てられた。また、子どもを救済するという信仰がおこり、子安地蔵となってあらゆる階層に浸透していった。江戸時代に最も盛んとなり、延命地蔵や六地蔵、千体地蔵など各地で地蔵講が催された。(略)本来、地蔵尊は、野道や山道で風雨に曝(さら)されながらも、功徳を求め、心の救いを求める、すがるものなき悲しい衆生に恵みを与えた仏であったので、あらゆる宗派をこえて信仰されたのであろう。目黒でも地蔵尊信仰は盛んである。それぞれに由来や伝説を秘め、お寺の境内や往来の辻々にひっそりとたたずんでいる。』
とありました。
なるほど。
地蔵尊信仰というものがあったんですね。
しかもかなりの歴史ですね。

写真3
中腹あたりから坂下あたりを見てみたものです。(写真3)
写真3左側に松見坂地蔵尊があるという場所ですね。
ちなみに、写真3右側の擁壁の上を前回取り上げた松見坂【NO.689】が並走して通っていて上り坂なんですけど、旧松見坂のほうは下り坂なんですよね。
これはどうやら、写真3奥に空川がかつて横切るように流れていて(今は暗渠?)、そのためこういう下り坂となっているようですね。
なので、もしかしたらですけど、昔の松見坂は、空川に向かって下り、また上る坂道だったのではという可能性も考えられ、その説が正しければ、今の松見坂【NO.689】はかなり形状変更されたのかもしれないですね。

絵図
前回取り上げた松見坂【NO.689】にもでてきた、江戸名所図会「駒場野」(画:長谷川雪旦)です。
現地の坂の碑に由来とともに設置してあったプレート絵の元ですね。
そこでこれまでの歴史を踏まえて、この絵図を見直してみると、写真3でいえば、右奥側方向に駒場野があったというところを鑑みると絵図の坂道はまさに昔の松見坂の様子なのかもしれないなあという可能性が浮かび上がってきたんですけど、実際のところどうなんでしょうね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都目黒区大橋
関連リンク: