NO. 689
坂名:松見坂、駒場坂
住所:東京都目黒区大橋+駒場
今回は目黒区大橋と駒場にまたがる松見坂について取り上げてみたいと思います。
場所は京王井の頭線・神泉駅から南東に300m(徒歩なら6分ほど)のところにある坂道です。
前回取り上げた富士見坂【NO.688】とは坂下でつながっています。

写真1
まずは坂下あたりの様子です。(写真1)
淡島通り沿いにあり、写真1背後に山手通りがあるという立地具合でした。
坂道自体はカーブしながら上る形状で、風景的にも記憶に残りやすいような雰囲気でしたね。
坂名については、現地に由来などが書かれた坂の碑がありました。(写真1でいえばすぐ左側ですね。)
いつものように抜粋させていただくとですね、
『この坂から、「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた))がよく見えたので、松見坂と呼ばれるようになったといわれる。また、坂の途中に「松見地蔵」があったので 坂の名になったという説もある。昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる 広大な原野があったが,今はその面影もない。』
とありました。
なにげに物騒な話が由来だったんですね。
ちなみにこの坂道については、目黒区のHPにも記載があり、気になる一文があったので、こちらも抜粋させていただくとですね、
『昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。坂名の由来は、この道玄の話が有力だ。道玄が出没していたのは、今から約450年以上も前のことである。』
とのこと。
ここでの道玄太郎とは、道玄坂【NO.191】の由来話で出てきた大和田太郎道玄のことなんでしょうね。
道玄坂【NO.191】の坂の碑の由来では、『 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。』と書かれていて、渋谷氏の一族と書かれてありましたが、こちらでは山賊とありますね。
物騒な話につながりかねないですけど、坂名の由来にもなっている人(しかも渋谷のど真ん中の坂道)なので、どう捉えたらいいんでしょうね。

絵図
こちらの絵図は、江戸名所図会「駒場野」(画:長谷川雪旦)です。
現地の坂の碑に由来とともに設置してあったプレート絵の元ですね。
詳しい場所はわからないですけど、右奥には駒場野とあり、駒場野は由来説明にもあるとおり、この坂の北西にあったそうなので、坂上あたりからの景色なんですかね。

写真2
坂上あたりの様子です。(写真2)
見た目は整備されて新し目ですけど、今昔マップでも掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載があることはもちろん、由来説明での話は450年以上前の話なので、やはりかなり古くからあった坂道なのでしょうね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都目黒区大橋+駒場
関連リンク:
坂名:松見坂、駒場坂
住所:東京都目黒区大橋+駒場
今回は目黒区大橋と駒場にまたがる松見坂について取り上げてみたいと思います。
場所は京王井の頭線・神泉駅から南東に300m(徒歩なら6分ほど)のところにある坂道です。
前回取り上げた富士見坂【NO.688】とは坂下でつながっています。
[坂下あたりの様子と坂名について]

写真1
まずは坂下あたりの様子です。(写真1)
淡島通り沿いにあり、写真1背後に山手通りがあるという立地具合でした。
坂道自体はカーブしながら上る形状で、風景的にも記憶に残りやすいような雰囲気でしたね。
坂名については、現地に由来などが書かれた坂の碑がありました。(写真1でいえばすぐ左側ですね。)
いつものように抜粋させていただくとですね、
『この坂から、「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた))がよく見えたので、松見坂と呼ばれるようになったといわれる。また、坂の途中に「松見地蔵」があったので 坂の名になったという説もある。昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる 広大な原野があったが,今はその面影もない。』
とありました。
なにげに物騒な話が由来だったんですね。
ちなみにこの坂道については、目黒区のHPにも記載があり、気になる一文があったので、こちらも抜粋させていただくとですね、
『昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。坂名の由来は、この道玄の話が有力だ。道玄が出没していたのは、今から約450年以上も前のことである。』
とのこと。
ここでの道玄太郎とは、道玄坂【NO.191】の由来話で出てきた大和田太郎道玄のことなんでしょうね。
道玄坂【NO.191】の坂の碑の由来では、『 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。』と書かれていて、渋谷氏の一族と書かれてありましたが、こちらでは山賊とありますね。
物騒な話につながりかねないですけど、坂名の由来にもなっている人(しかも渋谷のど真ん中の坂道)なので、どう捉えたらいいんでしょうね。

絵図
こちらの絵図は、江戸名所図会「駒場野」(画:長谷川雪旦)です。
現地の坂の碑に由来とともに設置してあったプレート絵の元ですね。
詳しい場所はわからないですけど、右奥には駒場野とあり、駒場野は由来説明にもあるとおり、この坂の北西にあったそうなので、坂上あたりからの景色なんですかね。
[坂上あたりの様子]

写真2
坂上あたりの様子です。(写真2)
見た目は整備されて新し目ですけど、今昔マップでも掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載があることはもちろん、由来説明での話は450年以上前の話なので、やはりかなり古くからあった坂道なのでしょうね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都目黒区大橋+駒場
関連リンク: