NO. 645
坂名:阿弥陀坂
住所:東京都国分寺市西恋ケ窪
今回は、JR西国分寺駅からすぐのところにあったかもしれない阿弥陀坂について取り上げてみたいと思います。
写真1
阿弥陀坂については、書籍「江戸東京坂道事典」で取り上げられていて、
『一葉松と姿見池の間を府中市北端の武蔵台から下る住吉の鎌倉街道の坂路であったが、鉄道開通で分断され、住宅や工場が建ったりして、全く坂跡が途絶えてしまった。わずかに一葉松の東わきに坂尾のような傾斜があるが鎌倉街道そのものが、江戸時代に変更されているので、(略)諸説はあっても、失われたというほかない』
というような具合で書かれてありました。
はっきりいってこれだけだとわからないんですけど、「府中市北端の武蔵台から下る住吉の鎌倉街道」というのは、おそらく伝鎌倉街道のことだと思われ、こちらは以前にこのブログでも取り上げていますね(記事名:伝鎌倉街道の切り通しと坂道/国分寺市西元町)
そして今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治39年の地図には府中市北端の伝鎌倉街道を北上する道があり、今のJR西国分寺駅で分断されてはいますが、その道の続きが写真1の道という具合のようでした。
そして、「一葉松の東わきに坂尾のような傾斜」という一文から地図を見てみると、JR国分寺駅から北東に200mほどのところにある東福寺の境内に「傾城の松・一葉松(三代目)」というピンがグーグルマップでは立っていたので、写真1はその東福寺の横から南側を見ているものを撮ってみたというわけです。
写真1の手前はほぼ平坦でしたけど、奥のほうは坂道になっていて、「一葉松の東わきに坂尾のような傾斜がある」という書籍の説明ともありますが、どうなんでしょうね。
ちなみに「傾城の松・一葉松(三代目)」のピンのあるあたりも歩いてみましたけど、それらしきものがどれかわからなかったですね。
ただ、今昔マップの明治39年の地図にも一葉松の記載はあり(ただし東福寺のところではなく、もうすこし東側でした)、存在自体は昔からあったようです。
なお書籍「江戸東京坂道事典」には『阿弥陀坂 富士見塚より十三町あまり隔てて、恋ヶ窪村の地北に向いて下る坂を云う。』という一文が江戸名所図会にあるともありました。
これから推測しても、写真1の道が阿弥陀坂という可能性はあるかも。
そして江戸名所図会の説明にある富士見塚といえば、こちらも以前にこのブログで取り上げていたりします(記事名:富士見坂/今は存在しない坂道/府中市武蔵台+国分寺市西元町【NO.581】)ね。
写真2
こちらは、写真1の場所から望遠レンズで写真1奥の坂道を撮ってみたものです。(写真2)
ちなみにいまこの記事を書くために調べていたところで、国分寺市による「武蔵国分寺跡資料館だより」でも阿弥陀坂の検証をしている記事を見つけたんですが、どうやらこちらも僕と同じ意見のようで、写真2の坂道が阿弥陀坂なのではないかと書いていましたね。
写真3
最後は写真2の坂道を南下(写真2でいえば奥に向かっています)して、JR中央線とぶつかるところの様子です。(写真3)
なので写真3は南側を見ているものですね。
このときはなんとなく撮っておいた写真なんですけど、国分寺市による「武蔵国分寺跡資料館だより」によれば、このあたりに阿弥陀坂があったのではないかということでしたね。
いまは道筋だけがその痕跡をとどめているだけでしたけどね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都国分寺市西恋ケ窪
関連リンク:
→ 武蔵国分寺跡資料館だより(PDF)
坂名:阿弥陀坂
住所:東京都国分寺市西恋ケ窪
今回は、JR西国分寺駅からすぐのところにあったかもしれない阿弥陀坂について取り上げてみたいと思います。
[今は存在しない坂道と痕跡]
写真1
阿弥陀坂については、書籍「江戸東京坂道事典」で取り上げられていて、
『一葉松と姿見池の間を府中市北端の武蔵台から下る住吉の鎌倉街道の坂路であったが、鉄道開通で分断され、住宅や工場が建ったりして、全く坂跡が途絶えてしまった。わずかに一葉松の東わきに坂尾のような傾斜があるが鎌倉街道そのものが、江戸時代に変更されているので、(略)諸説はあっても、失われたというほかない』
というような具合で書かれてありました。
はっきりいってこれだけだとわからないんですけど、「府中市北端の武蔵台から下る住吉の鎌倉街道」というのは、おそらく伝鎌倉街道のことだと思われ、こちらは以前にこのブログでも取り上げていますね(記事名:伝鎌倉街道の切り通しと坂道/国分寺市西元町)
そして今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治39年の地図には府中市北端の伝鎌倉街道を北上する道があり、今のJR西国分寺駅で分断されてはいますが、その道の続きが写真1の道という具合のようでした。
そして、「一葉松の東わきに坂尾のような傾斜」という一文から地図を見てみると、JR国分寺駅から北東に200mほどのところにある東福寺の境内に「傾城の松・一葉松(三代目)」というピンがグーグルマップでは立っていたので、写真1はその東福寺の横から南側を見ているものを撮ってみたというわけです。
写真1の手前はほぼ平坦でしたけど、奥のほうは坂道になっていて、「一葉松の東わきに坂尾のような傾斜がある」という書籍の説明ともありますが、どうなんでしょうね。
ちなみに「傾城の松・一葉松(三代目)」のピンのあるあたりも歩いてみましたけど、それらしきものがどれかわからなかったですね。
ただ、今昔マップの明治39年の地図にも一葉松の記載はあり(ただし東福寺のところではなく、もうすこし東側でした)、存在自体は昔からあったようです。
なお書籍「江戸東京坂道事典」には『阿弥陀坂 富士見塚より十三町あまり隔てて、恋ヶ窪村の地北に向いて下る坂を云う。』という一文が江戸名所図会にあるともありました。
これから推測しても、写真1の道が阿弥陀坂という可能性はあるかも。
そして江戸名所図会の説明にある富士見塚といえば、こちらも以前にこのブログで取り上げていたりします(記事名:富士見坂/今は存在しない坂道/府中市武蔵台+国分寺市西元町【NO.581】)ね。
写真2
こちらは、写真1の場所から望遠レンズで写真1奥の坂道を撮ってみたものです。(写真2)
ちなみにいまこの記事を書くために調べていたところで、国分寺市による「武蔵国分寺跡資料館だより」でも阿弥陀坂の検証をしている記事を見つけたんですが、どうやらこちらも僕と同じ意見のようで、写真2の坂道が阿弥陀坂なのではないかと書いていましたね。
[阿弥陀坂の痕跡]
写真3
最後は写真2の坂道を南下(写真2でいえば奥に向かっています)して、JR中央線とぶつかるところの様子です。(写真3)
なので写真3は南側を見ているものですね。
このときはなんとなく撮っておいた写真なんですけど、国分寺市による「武蔵国分寺跡資料館だより」によれば、このあたりに阿弥陀坂があったのではないかということでしたね。
いまは道筋だけがその痕跡をとどめているだけでしたけどね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都国分寺市西恋ケ窪
関連リンク:
→ 武蔵国分寺跡資料館だより(PDF)