住所:東京都国分寺市西元町

前回取り上げた堂坂【NO.644】からも見えていた国分寺市西元町にある武蔵国分寺の薬師堂と階段がよかったので、今回はそのときのことなど。

[坂下あたりの様子と仁王門]


武蔵国分寺 薬師堂への階段1
写真1

まずは武蔵国分寺の境内入口の階段の様子です。(写真1)
写真1左側が前回取り上げた堂坂【NO.644】の坂下あたりという場所でした。

緑がすごくて、階段上には仁王門が見えていました。
仁王門は宝暦年間(1751-63)に建立された三間一戸八脚門とのことで、国分寺市重要有形文化財に指定されているそうです。

[中腹あたりの様子]


武蔵国分寺 薬師堂への階段2
写真2

仁王門をくぐると、さらに階段は続いていました。(写真2)
この階段は、国分寺崖線上にあるため、前回取り上げた堂坂【NO.644】同様に高低差はかなりありましたね。

ちなみに写真2の右側には国指定史跡「武蔵国分寺跡」に関する案内看板が設置されていました。
写真1の背後に徒歩1分ほどのところには、関連遺跡がたくさんありましたが、そのことについても書かれてありました。

ただ看板の説明は長いので今回は載せませんが、国分寺市のHPに同じような内容で比較的短い説明があったので、そちらを抜粋させていただくとですね、
『奈良時代の中頃の天平13年(741年)、政治の混乱や社会不安の続く国内を仏の力で国を安定させるために、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺の伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際に焼失したと伝えられていますが、江戸時代には武蔵国分寺跡は江戸近郊の名所として知識人の注目を集め、地誌にも紹介されるようになりました。武蔵国分寺跡は、規模やその歴史的価値の高さから、大正11年(1922年)に国史跡に指定され、市ではその一部を市立歴史公園として整備し、保存と活用に取り組んでいます。』
とありました。

今回の武蔵国分寺の歴史を知るうえでも重要な話ですね。

[坂上あたりと薬師堂]


武蔵国分寺 薬師堂への階段3
写真3

さらに上ると、階段上に薬師堂が見えてきましたね。(写真3)
あいかわらず雰囲気はよかったですね。

武蔵国分寺 薬師堂への階段4
写真4

階段上まできて、坂下方向を見てみました。(写真4)
高低差はかなりのものでしたが、樹木が元気だったので眺望はそれほどでもなかったですね。

武蔵国分寺 薬師堂への階段5
写真5

最後は写真4の背後にあった薬師堂の様子でも。(写真5)

薬師堂は、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているそうです。
目の前にある建物は宝暦年間(1751−63)に再建されたものとのことで、現在は国分寺市重要有形文化財にも指定されているそうですね。

そんなわけで、いくつかの資料や武蔵国分寺跡の歴史をみたところ、武蔵国分寺は天平宝字年間(757−65)頃に建立されたと考えられていて、1333年に新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦の際に、武蔵国分寺は焼失したそうですが、その後再建され、薬師堂なども建立され今にいたるという具合のようでしたね。

そういう意味ではかなりの歴史のあるお寺ということになりそうですね。

ということことで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図:東京都国分寺市西元町


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