NO. 640
坂名:久左衛門(きゅうざえもん)坂
住所:東京都新宿区新宿
今回は新宿区新宿にある久左衛門坂について取り上げてみたいと思います。
場所は都営大江戸線・東新宿駅から抜弁天通り沿いに東へ徒歩5分ほどのところにあります。
前に取り上げた不動坂【NO.639】からなら、北に徒歩2分ほどのところでした。
写真1
まずは坂上あたりの様子など。
写真1左側が抜弁天通りで、そこから北西に抜ける道が今回の坂道です。
坂上からは坂下あたりは見えず、距離もそれなりにあるけっこうくねくねとした形状の坂道でしたね。
ちなみにここには、写真1右側にも見えているとおり、坂名の由来などが書かれている坂の碑があったので、抜粋させていただくとですね、
『この坂は徳川家康の江戸入府以前から大久保に住んでいた島田家の久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。』
とありました。
ただこの由来説明の書き方だと今回の坂道が江戸時代からあるようにもとれるので、江戸時代の古地図もみてみると、この坂道は描かれていませんでしたね。
なので、それなりに新しい坂道のようですね。
なお新宿文化観光資源案内サイトでも久左衛門坂のことが取り上げられていて、久左衛門のこともふれられていました。
『久左衛門は藤原鎌足の血をひく豊後守藤原重久の後裔である。重久は足利幕府滅亡により武蔵国に渡ったが、重久の後裔久左衛門は江戸大久保に移り住み、篠田姓を名乗り篠田久左衛門と称した。元和元年(1615)に施かれた武家諸法度令により、篠田家は、姓を島田と改め、篠田久左衛門は島田久左衛門となり、33年後の慶安元年(1648)その生涯を終えた。』
写真2
写真2の右側には、永福寺の入口もありました。
創建は慶安元年(1648)といわれているそうで、歴史のあるお寺のようですね。
写真3
中腹あたりから坂上方向を見てみたものです。
ここからだとくねくね形状具合もわかりやすかったですね。
まわりはビルやマンションが多かったです。
写真4
最後は坂下あたりの様子です。
ここにも坂の碑がありましたね。
ここは坂上と坂下に坂の碑があり、わかりやすかったので距離も測ってみると120mほどでした。
普通に歩けば、2分くらいですかね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図:東京都新宿区新宿
関連リンク:
坂名:久左衛門(きゅうざえもん)坂
住所:東京都新宿区新宿
今回は新宿区新宿にある久左衛門坂について取り上げてみたいと思います。
場所は都営大江戸線・東新宿駅から抜弁天通り沿いに東へ徒歩5分ほどのところにあります。
前に取り上げた不動坂【NO.639】からなら、北に徒歩2分ほどのところでした。
[坂上あたりの様子]
写真1
まずは坂上あたりの様子など。
写真1左側が抜弁天通りで、そこから北西に抜ける道が今回の坂道です。
坂上からは坂下あたりは見えず、距離もそれなりにあるけっこうくねくねとした形状の坂道でしたね。
ちなみにここには、写真1右側にも見えているとおり、坂名の由来などが書かれている坂の碑があったので、抜粋させていただくとですね、
『この坂は徳川家康の江戸入府以前から大久保に住んでいた島田家の久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。』
とありました。
ただこの由来説明の書き方だと今回の坂道が江戸時代からあるようにもとれるので、江戸時代の古地図もみてみると、この坂道は描かれていませんでしたね。
なので、それなりに新しい坂道のようですね。
なお新宿文化観光資源案内サイトでも久左衛門坂のことが取り上げられていて、久左衛門のこともふれられていました。
『久左衛門は藤原鎌足の血をひく豊後守藤原重久の後裔である。重久は足利幕府滅亡により武蔵国に渡ったが、重久の後裔久左衛門は江戸大久保に移り住み、篠田姓を名乗り篠田久左衛門と称した。元和元年(1615)に施かれた武家諸法度令により、篠田家は、姓を島田と改め、篠田久左衛門は島田久左衛門となり、33年後の慶安元年(1648)その生涯を終えた。』
写真2
写真2の右側には、永福寺の入口もありました。
創建は慶安元年(1648)といわれているそうで、歴史のあるお寺のようですね。
[中腹あたりの様子]
写真3
中腹あたりから坂上方向を見てみたものです。
ここからだとくねくね形状具合もわかりやすかったですね。
まわりはビルやマンションが多かったです。
[坂下あたりの様子]
写真4
最後は坂下あたりの様子です。
ここにも坂の碑がありましたね。
ここは坂上と坂下に坂の碑があり、わかりやすかったので距離も測ってみると120mほどでした。
普通に歩けば、2分くらいですかね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図:東京都新宿区新宿
関連リンク: