NO. 617
坂名:谷畑坂
住所:東京都目黒区自由が丘

今回は、目黒区の谷畑坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、東急東横線・自由が丘駅から北西に徒歩5分ほどのところにあります。
だいぶ前に取り上げた太鼓坂【NO.274】からなら、南に徒歩6分くらいのところですね。

[坂上あたりの様子と坂名の由来]


谷畑坂【NO.617】1
写真1

まずは坂上あたりに様子です。(写真1)
自由が丘駅から一歩離れた落ち着いた住宅街の中にある坂道でした。

形状はまっすぐで、傾斜はやや急でしたね。

ちなみにここには写真1でも見えているとおり、坂名の由来が書かれている坂の碑がありました。
いつものように抜粋させていただくとですね、
『旧衾(ふすま)村の字「谷畑」にあることから谷畑坂と呼ばれた。この坂下はかつて湿地で鷺草(さぎそう)が自生していた。またこの道は、二子道(現、目黒通り)から九品仏方面への道として耕地整理以前から現在に近い形で、直線的にあった古道であった。』
とありました。

地名由来ですかね。

いちおう今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載があるので、やはりかなり古くからある坂道のようで、さらにいくつかの坂道本でも取り上げられているので、江戸時代からある可能性は高いですね。

[民話と界隈の有名スポット]


谷畑坂【NO.617】2
写真2

坂下あたりの様子です。(写真2)
ここからだと傾斜具合もわかりやすいですね。

なお目黒区のHPにもこの坂道についてのページがありそこには『「衾の不思議三つござる 曲り松、鷺草(さぎそう)に竹の二股」と江戸時代から大正末期にかけて、目黒村、碑文谷村、衾村一帯にかけてうたわれた麦打唄。今では、静かな住宅街となっているこの辺りにも、麦を打つクルリ棒の音と農民の歌声が響いていたのだろうか。』という一文がありました。

なぜこの麦打唄が取り上げられているのだろうと思って調べてみると、どうやらこの坂道の坂下あたりに自生していた鷺草(さぎそう)にまつわる民話が残っているようでしたね。
こちらも目黒区のHPに載っていましたが、長いので、AIの力を借りて以下にまとめてみました。
『世田谷城主吉良頼康は側室常盤姫を愛したが、他の側室たちの讒言で疑いを持ち、冷たく接するようになった。絶望した常盤姫は自害し、遺書を白鷺の足に結んで奥沢城へ送った。狩りをしていた頼康は白鷺を射殺し、遺書の内容を知って後悔するも、後の祭りだった。頼康は常盤姫と子の霊を慰めるために駒留八幡宮に若宮と弁財天を祀った。白鷺は命を落とした場所に、鷺の形の花を咲かせる草になったという。』

なるほどですね。
だから鷺草(さぎそう)がキーワードだったんですね。

あとは、坂下から南東に徒歩2分もかからない場所に最近できた「自由が丘デュアオーネ」があるんですけど、ここは黒柳徹子さんによる「窓ぎわのトットちゃん」の舞台、トモエ学園のあった場所だそうですね。

ということで、今回はこんな感じです。

地図
東京都目黒区自由が丘

関連リンク:  
→  太鼓坂【NO.274】/目黒区八雲 - 東京坂道さんぽ
→  目黒の坂 谷畑坂(やばたざか) _ 目黒区
→  歴史を訪ねて 鷺草(さぎそう)伝説 _ 目黒区