今回は、前回取り上げた堂坂【NO.599】からすぐの旧鎌倉街道を歩いたときのことでも。
写真1
こちらが、旧鎌倉街道ですね。(写真1)
旧鎌倉街道だけだとたくさんあるので、場所的には前回取り上げた堂坂【NO.599】から南西に徒歩2分ほどのところですね。
いい感じで坂道になっていて、古い道にありがちなうねうね具合も見えたので、ぱちりと。
このあたりは旧鎌倉街道沿いということもあって、道沿いにいくつか歴史的なスポットもありましたね。
その中でも記憶に残ったのが「関戸古戦場跡」で、写真1の背後に徒歩3分くらいの場所にありましたね。
「関戸古戦場跡」については、堂坂【NO.599】でもすこしふれましたけど、僕自身の中でも復習する意味で調べてみると、多摩市による観光ガイドに関戸合戦のことがわかりやすく書かれていましたよ。
抜粋させていただくとですね、
『 分倍河原戦で敗走した鎌倉幕府軍は、多摩川を越え、関戸付近で激しい掃討戦により、多くの人々が討死していきました。大将である北条泰家が関戸付近で討たれそうになりますが、弓の名手・横溝八郎が踏みとどまり、新田軍を次々に射落とし奮戦しますが最後は討死します。また、安保入道父子ら多くの家臣が討死を遂げる中、北条泰家は無事鎌倉に逃げることが出来ました。新田軍は17日まで関戸に留まり、その後一気に鎌倉に向かいます。18日に鎌倉で戦が始まり、22日に北条一族が東勝寺で自害をし、ここに鎌倉幕府は滅亡することになったのです。』
ちなみに、この関戸古戦の前日譚である 分倍河原合戦についても触れられていました。
『上野の国( 今の群馬県 ) の武将・新田義貞は、後醍醐天皇側からの命令を受け、元弘3年(1333)8月8日鎌倉幕府を倒すため兵を挙げました。 新田軍は、鎌倉街道上ノ道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は、5月9日に鎌倉を出発。両軍は、小手指原 ( 入間市 ) 久米河 ( 東村山市 ) にて衝突し、5月15日に武蔵国府のある府中に至ります。15日、16日の2日間にわたって、分倍河原では激しい戦いになりました。一度は苦境にたった新田軍でしたが、近隣からの応援を受け、分倍河原で再決戦にのぞみ、鎌倉幕府軍を打ち破ります。』
なるほどなるほど。
だいぶ思い出しましたね。
なので、この写真1のすぐ背後が関戸古戦場跡ということなので、このあたりはまさに歴史的舞台になった道であり坂道とも言えそうですね。
そういう意味では、ここにもなにか坂名があってもいいのかなと思ってみたり。
あとは関戸合戦といえば、けっこう前に聖蹟桜ヶ丘の高台にある関戸城跡についてもふれた記事(記事名:聖蹟桜ヶ丘の天守台(関戸城跡)の階段と坂道)も書きましたね。
写真2
写真2の右側には古そうな急階段がありました。(写真2)
階段上には大樹があってみるからに特徴的だったので、記録しておいたのですが、帰ってから調べてみると、階段上にあったのは「無名武士の墓」だったようです。
調べたところでは、やはりここも関戸合戦と関係のある場所のようでした。
ということは、この石垣も相当古いものなのかもしれないですし、まさにこのあたりも古戦場だったんでしょうね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都多摩市関戸
関連リンク:
→ 堂坂【NO.599】/多摩市連光寺 - 東京坂道さんぽ
→ 聖蹟桜ヶ丘の天守台(関戸城跡)の階段と坂道 /多摩市桜ケ丘 - 東京坂道さんぽ
写真1
こちらが、旧鎌倉街道ですね。(写真1)
旧鎌倉街道だけだとたくさんあるので、場所的には前回取り上げた堂坂【NO.599】から南西に徒歩2分ほどのところですね。
いい感じで坂道になっていて、古い道にありがちなうねうね具合も見えたので、ぱちりと。
このあたりは旧鎌倉街道沿いということもあって、道沿いにいくつか歴史的なスポットもありましたね。
その中でも記憶に残ったのが「関戸古戦場跡」で、写真1の背後に徒歩3分くらいの場所にありましたね。
「関戸古戦場跡」については、堂坂【NO.599】でもすこしふれましたけど、僕自身の中でも復習する意味で調べてみると、多摩市による観光ガイドに関戸合戦のことがわかりやすく書かれていましたよ。
抜粋させていただくとですね、
『 分倍河原戦で敗走した鎌倉幕府軍は、多摩川を越え、関戸付近で激しい掃討戦により、多くの人々が討死していきました。大将である北条泰家が関戸付近で討たれそうになりますが、弓の名手・横溝八郎が踏みとどまり、新田軍を次々に射落とし奮戦しますが最後は討死します。また、安保入道父子ら多くの家臣が討死を遂げる中、北条泰家は無事鎌倉に逃げることが出来ました。新田軍は17日まで関戸に留まり、その後一気に鎌倉に向かいます。18日に鎌倉で戦が始まり、22日に北条一族が東勝寺で自害をし、ここに鎌倉幕府は滅亡することになったのです。』
ちなみに、この関戸古戦の前日譚である 分倍河原合戦についても触れられていました。
『上野の国( 今の群馬県 ) の武将・新田義貞は、後醍醐天皇側からの命令を受け、元弘3年(1333)8月8日鎌倉幕府を倒すため兵を挙げました。 新田軍は、鎌倉街道上ノ道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は、5月9日に鎌倉を出発。両軍は、小手指原 ( 入間市 ) 久米河 ( 東村山市 ) にて衝突し、5月15日に武蔵国府のある府中に至ります。15日、16日の2日間にわたって、分倍河原では激しい戦いになりました。一度は苦境にたった新田軍でしたが、近隣からの応援を受け、分倍河原で再決戦にのぞみ、鎌倉幕府軍を打ち破ります。』
なるほどなるほど。
だいぶ思い出しましたね。
なので、この写真1のすぐ背後が関戸古戦場跡ということなので、このあたりはまさに歴史的舞台になった道であり坂道とも言えそうですね。
そういう意味では、ここにもなにか坂名があってもいいのかなと思ってみたり。
あとは関戸合戦といえば、けっこう前に聖蹟桜ヶ丘の高台にある関戸城跡についてもふれた記事(記事名:聖蹟桜ヶ丘の天守台(関戸城跡)の階段と坂道)も書きましたね。
写真2
写真2の右側には古そうな急階段がありました。(写真2)
階段上には大樹があってみるからに特徴的だったので、記録しておいたのですが、帰ってから調べてみると、階段上にあったのは「無名武士の墓」だったようです。
調べたところでは、やはりここも関戸合戦と関係のある場所のようでした。
ということは、この石垣も相当古いものなのかもしれないですし、まさにこのあたりも古戦場だったんでしょうね。
ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都多摩市関戸
関連リンク:
→ 堂坂【NO.599】/多摩市連光寺 - 東京坂道さんぽ
→ 聖蹟桜ヶ丘の天守台(関戸城跡)の階段と坂道 /多摩市桜ケ丘 - 東京坂道さんぽ