住所:東京都中野区中野

今回は、JR中野駅から北東に徒歩10分ほどのところの早稲田通り沿いに「天神坂上」という交差点があったので、すこしばかり調べてみました。

天神町の石仏と天神坂?1
写真1

「天神坂上」交差点と早稲田通りの様子です。(写真1)
写真1右奥に伸びているのが早稲田通りですね。
場所は、近くに恒久的な施設がないので、言いにくいですけど、あえていえば、JR中野駅の東側にある「なかのZERO」の横を通っている「もみじ山通り」と早稲田通りとが交差するところですね。

ちなみにこの周りには「天神坂」と名付けられている坂道はないのですよ。
ただ地図で見てみると、ここから南に「天神北野神社」という気になる名前の神社があったので、そちらに向かうことにしてみました。

天神町の石仏と天神坂?2
写真2

写真1でいえば、右側の道路の様子です。(写真2)
(なので写真2の背後が「天神坂上」交差点ということになりますね。)

ここからは「もみじ山通り」になり、カーブの向こうが坂道になっていました。

天神町の石仏と天神坂?3
写真3

この「もみじ山通り」は昔、中野に住んでいたときもよく通っていたところなので、坂道になっていることは知っていたので、ずんずん進み、坂上方向を見てみました。(写真3)
けっこうな高低差のある坂道でしたね。

天神町の石仏と天神坂?4
写真4

そして、写真3の場所から中野駅方向(西側)に徒歩2分ほどのところに「天神北野神社」がありました。(写真4)
創建年代は不明ですが、江戸時代後期には既に存在していたといわれている神社とのこと。

念の為、今昔マップで掲載されている一番古い明治42年の地図を見てみても、やはり「天神北野神社」は今と同じ場所にあり、写真3で取り上げた無名坂も記載がありましたね。
そういう意味では、やはり写真3で取り上げた「もみじ山通り」沿いの無名坂が、天神坂の可能性は高いかもですね。
というか、そう呼んでもいいくらいですね。

天神町の石仏と天神坂?5
写真5

だいたいの予想がついたところで、最後は境内にあった「天神町の石仏」の様子など。(写真5)
現地には、写真5でも見えているとおり、案内板もあったので、いつものように抜粋させていただくとですね、
『天神町の石仏という呼称は、中野五丁目東側のこのあたりが昭和四十一(一九六六)年まで天神町と呼ばれていたことに由来します。青面金剛像と知恵物観音像は、いずれも元禄期に彫刻・造立されたもので、剣文の「打越村 願主 鈴木保坂」は、当時この地に住んでいた村人と思われます。その人々が中心となって、庚申講や知恵輪観音講をつくり、近くの村人を一堂に集めて、講の座をいくども重ねたことでしょう。江戸時代も元禄頃になると、伝統的な信仰行事もしだいに民衆化され、いつしか楽的な面が強くなっていったようです。この三体の石仏は以前、この神社前の道路わきにあったといわれ、講の結成を記念し、あわせて青梅街道から新井薬師へ参詣する人々の安全を祈り、道しるべもかねて造立されたようです。人々の安全を祈ることにより、その功徳で自分たちが幸せになれるように願った、当時の村人たちの素朴な信仰をうかがうことができます。』

ここでも庚申講あったんですね。

あとは「人々の安全を祈ることにより、その功徳で自分たちが幸せになれるように願った、当時の村人たちの素朴な信仰をうかがうことができます。」
という最後の一文にじんときました。(^^)

ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
東京都中野区中野

関連リンク:  
→   レンガ坂【NO.595】/中野区中野 - 東京坂道さんぽ
→   庚申塔(こうしんとう)って何 _ 目黒区