NO. 594
坂名:元坊坂、元墓坂
住所: 東京都杉並区久我山

今回は、杉並区の元坊坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、京王井の頭線・久我山駅から西へ徒歩3分ほどのところにある久我山稲荷神社に隣接している坂道です。
前に取り上げた御女郎坂【NO.592】からなら、西へ徒歩3分ほどですね。

元坊坂【NO.594】1
写真1

まずは坂下あたりの様子など。
左にググッとカーブしながら上っている坂道でした。
写真1右側の樹木は久我山稲荷神社の境内のものですね。

坂道とともに崖と樹木が見えるのも印象的でしたね。

元坊坂【NO.594】2
写真2

坂上まできて坂下方向を見てみました。
このあたりの傾斜はだいぶ緩やかになっていました。
写真2左側には久我山稲荷神社の鳥居も見えているとおり、神社の境内で大きな樹木も印象的でした。

ちなみにここには、坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでした。
ただ「東京23区の坂道」のサイトによれば、杉並区による資料(杉並の通称地名)に「昔この坂上に寺があり光明寺と呼んだ。光明寺騒動という事件があって寺はつぶれたと伝えられる。」とあるとも書かれていました。

元坊の意味はわからなかったですが、おそらく本坊と関係がありそうな気がしますね。

あと光明寺騒動については、久我山稲荷神社のサブサイトのようなページに、この騒動のことが記されていたのですが、長かったので、AIの力も借りつつ短くまとめてみました。
『三百年以上前、久龍山光明寺の住職は女好きで、檀家の後家や娘に手あたり次第手をつける問題のある人物でした。ある日、村の若者たちが酒の勢いであの坊主はけしからんということで彼を袋叩きにして川に投げ込んでしまいました。住職は生き延びて代官所へ訴えたことで、若者たちは終身刑になりましたが、訴え出た坊主の方にも非があるということで坊主は追放されました。その後六人の若者は次々に牢死。村人は彼らの供養のために石の地蔵を刻みました。その後、寺は火災で焼失し、久我山共同墓地に再建されますが、その寺も、明治のはじめ頃火事で焼けてしまい、今は久我山には寺はありません。』
とのこと。

この話を知ると、坂名の「元坊」も”本坊”関係というよりも、”元、坊さん”の昔話のある坂道なんて妄想してしまいそうですね。
適当な妄想ですけど。(^^)

元坊坂【NO.594】3
写真3

最後は、写真2の左側にも見えていた久我山稲荷神社の参道の様子でも。
久我山稲荷神社は創立年代は明らかではないが、古来から久我山の鎮守で、明治40年4月に天祖神社を合祀して今にいたっているとのこと。
また境内には元禄16年(1703)年の庚申塔もあるそうです。

ということで、すこし前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
東京都杉並区久我山

関連リンク:  
→    御女郎坂【NO.592】/杉並区久我山 - 東京坂道さんぽ
→    久我山稲荷神社
→     久我山の昔話1-3 _ KugayamaInariJinjya