今回は、和泉多摩川河川敷あたりを通ったときに富士山が見えたので、そのときのことでも。
写真1
みどりの日というわけではないですが、和泉多摩川河川敷あたりの様子です。(写真1)
このあたりは緑も多かったですね。
そして、このときは遠くに富士山も見えましたよ。
地図でいえば、このあたりは小田急小田原線と多摩川が交差するあたりですね。
駅なら小田急小田原線・多摩川駅の南側にあたりますね。
なので、遠くには小田急小田原線の高架橋や登戸駅の駅舎も見えていましたよ。
写真2
望遠レンズで富士山を撮ってみました。(写真2)
富士山とともに小田急小田原線の電車も一緒に撮れましたね。(^^)
写真3
写真1と2の場所からすぐの場所には二ヶ領宿河原堰がありました。(写真3)
見てのとおりかっこいいつくりで、土木学会デザイン賞にも選ばれたことでも知られていますね。
国土交通省のHPの説明によれば、「二ヶ領宿河原堰は、400年以前の江戸時代からある二ヶ領用水へ多摩川からの水を取水するための堰で、昭和24年(1949年)の戦争直後にコンクリート堰として完成し、その後、昭和49年9月台風により左岸側の狛江市で迂回流による侵食破堤が発生したことを契機に、平成7年に堰改築工事を着工し、平成11年(1999年)に現在の堰が完成しました。」
とのこと。
ただ二ヶ領宿河原堰といえば、やはり水害との関係が思い浮かばれますね。
というのも、写真3のすぐ右側には「多摩川決壊の碑」というモニュメントがあるからなんです。
「多摩川決壊の碑」には説明板もあり、以下のようなことが書かれていました。
『昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心とした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼ごろ、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の民家19棟を流失させる被害をもたらしました。この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、多くの国民の注目を集めました。建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです。』
狛江市側が被害を受けたとあるので、ちょうどこのあたりだったんでしょうね。
富士山を見ながら、河川敷でスポーツをしている人みながら、そして学生時代のことを思い出しながら(??)、そんなかつての災害のことを記憶にとどめた散歩でもありましたね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図
東京都狛江市猪方
関連リンク:
→ 悪夢のような多摩川堤防決壊 - 狛江市役所
[和泉多摩川河川敷と富士山]
写真1
みどりの日というわけではないですが、和泉多摩川河川敷あたりの様子です。(写真1)
このあたりは緑も多かったですね。
そして、このときは遠くに富士山も見えましたよ。
地図でいえば、このあたりは小田急小田原線と多摩川が交差するあたりですね。
駅なら小田急小田原線・多摩川駅の南側にあたりますね。
なので、遠くには小田急小田原線の高架橋や登戸駅の駅舎も見えていましたよ。
写真2
望遠レンズで富士山を撮ってみました。(写真2)
富士山とともに小田急小田原線の電車も一緒に撮れましたね。(^^)
[二ヶ領宿河原堰と多摩川決壊の碑]
写真3
写真1と2の場所からすぐの場所には二ヶ領宿河原堰がありました。(写真3)
見てのとおりかっこいいつくりで、土木学会デザイン賞にも選ばれたことでも知られていますね。
国土交通省のHPの説明によれば、「二ヶ領宿河原堰は、400年以前の江戸時代からある二ヶ領用水へ多摩川からの水を取水するための堰で、昭和24年(1949年)の戦争直後にコンクリート堰として完成し、その後、昭和49年9月台風により左岸側の狛江市で迂回流による侵食破堤が発生したことを契機に、平成7年に堰改築工事を着工し、平成11年(1999年)に現在の堰が完成しました。」
とのこと。
ただ二ヶ領宿河原堰といえば、やはり水害との関係が思い浮かばれますね。
というのも、写真3のすぐ右側には「多摩川決壊の碑」というモニュメントがあるからなんです。
「多摩川決壊の碑」には説明板もあり、以下のようなことが書かれていました。
『昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心とした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼ごろ、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の民家19棟を流失させる被害をもたらしました。この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、多くの国民の注目を集めました。建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです。』
狛江市側が被害を受けたとあるので、ちょうどこのあたりだったんでしょうね。
富士山を見ながら、河川敷でスポーツをしている人みながら、そして学生時代のことを思い出しながら(??)、そんなかつての災害のことを記憶にとどめた散歩でもありましたね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図
東京都狛江市猪方
関連リンク:
→ 悪夢のような多摩川堤防決壊 - 狛江市役所