住所:東京都国分寺市西元町
今回は国分寺市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)内にある伝鎌倉街道について取り上げてみたいと思います。
写真1
このあたりは現地を歩いた感じでも地図を見た感じでもわかりにくかったのですが、地図ではひとつの公園のように見えている場所に実は国分寺市立歴史公園と国分寺市立黒鐘公園、そして府中市立武蔵台公園の3つがあるという具合で、今回の鎌倉街道なる道は国分寺市立歴史公園の北側エリアにありました。
国分寺市立歴史公園については前回取り上げた富士見坂【NO.581】で取り上げましたが、南側エリアに武蔵国分尼寺跡のある公園ですね。
伝鎌倉街道については、写真1ではわかりにくいですけど、坂道になっていて、これまた森の中にある坂道のようでもあり、昔もこんな感じだっただろうなあと妄想できそうな雰囲気でしたね。
ちなみに、伝鎌倉街道の由来については、現地にも案内板がありましたが、国分寺市のHPのほうにも記載があってそちらのほうがわかりやすかったので、抜粋させていただくとですね、
『現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたもので、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されていました。鎌倉以前の幹線道路である東山道武蔵路と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側−泉町交差点付近−小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびています。市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側にある国分寺崖線を切り通した約120メートルの道が「鎌倉上道」の名残といわれて保存されています。』
とありました。
要は旧鎌倉街道ということですね。
また、かっての鎌倉街道なら各地にありますが、たいていは普通の道路になっていますが、ここは切り通しとともにかつての様子をそのまま残している場所というか道ということなんですかね。
そういう意味では、「伝鎌倉街道」という名前はここだけのようなので、約120メートルほどの伝鎌倉街道という名前の坂道としてしまってもいいのではないかとも思ってしましまいましたね。
写真2
さらに写真1奥に行くと、切り通し感のある場所がありました。
写真2は坂下方向(すなわち写真1の場所のほう)を見ているものです。
写真2ではすこしわかりにくいですけど、両側は崖になっていましたね。
写真3
写真2の左側に見えていた階段の様子です。
たしかに崖ですね。
この上には「尼寺北方の塚」がありました。
見た目は、「塚」とあるとおり、崖上にある小さな小山といった感じでしたね。
写真4
最後は崖上の「尼寺北方の塚」のそばから、南東方向を眺めてみたものです。
このアングルはちょうど国分寺崖線の崖上からの眺めと高さ的にも同じ感じでしたね。
そういう意味では、この伝鎌倉街道、かなり頑張って国分寺崖線を切崩して、切り通しの道にしたんですね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図:国分寺市西元町
関連リンク:
今回は国分寺市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)内にある伝鎌倉街道について取り上げてみたいと思います。
写真1
このあたりは現地を歩いた感じでも地図を見た感じでもわかりにくかったのですが、地図ではひとつの公園のように見えている場所に実は国分寺市立歴史公園と国分寺市立黒鐘公園、そして府中市立武蔵台公園の3つがあるという具合で、今回の鎌倉街道なる道は国分寺市立歴史公園の北側エリアにありました。
国分寺市立歴史公園については前回取り上げた富士見坂【NO.581】で取り上げましたが、南側エリアに武蔵国分尼寺跡のある公園ですね。
伝鎌倉街道については、写真1ではわかりにくいですけど、坂道になっていて、これまた森の中にある坂道のようでもあり、昔もこんな感じだっただろうなあと妄想できそうな雰囲気でしたね。
ちなみに、伝鎌倉街道の由来については、現地にも案内板がありましたが、国分寺市のHPのほうにも記載があってそちらのほうがわかりやすかったので、抜粋させていただくとですね、
『現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたもので、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されていました。鎌倉以前の幹線道路である東山道武蔵路と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側−泉町交差点付近−小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびています。市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側にある国分寺崖線を切り通した約120メートルの道が「鎌倉上道」の名残といわれて保存されています。』
とありました。
要は旧鎌倉街道ということですね。
また、かっての鎌倉街道なら各地にありますが、たいていは普通の道路になっていますが、ここは切り通しとともにかつての様子をそのまま残している場所というか道ということなんですかね。
そういう意味では、「伝鎌倉街道」という名前はここだけのようなので、約120メートルほどの伝鎌倉街道という名前の坂道としてしまってもいいのではないかとも思ってしましまいましたね。
写真2
さらに写真1奥に行くと、切り通し感のある場所がありました。
写真2は坂下方向(すなわち写真1の場所のほう)を見ているものです。
写真2ではすこしわかりにくいですけど、両側は崖になっていましたね。
写真3
写真2の左側に見えていた階段の様子です。
たしかに崖ですね。
この上には「尼寺北方の塚」がありました。
見た目は、「塚」とあるとおり、崖上にある小さな小山といった感じでしたね。
写真4
最後は崖上の「尼寺北方の塚」のそばから、南東方向を眺めてみたものです。
このアングルはちょうど国分寺崖線の崖上からの眺めと高さ的にも同じ感じでしたね。
そういう意味では、この伝鎌倉街道、かなり頑張って国分寺崖線を切崩して、切り通しの道にしたんですね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図:国分寺市西元町
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