NO. 558
坂名:ぬめり坂
住所: 東京都大田区南久が原
今回は、大田区の「ぬめり坂」について取り上げてみたいと思います。
場所は東急多摩川線・下丸子駅の北側エリアにある藤森稲荷神社に隣接している坂道です。
だいぶ前に取り上げた富士見坂 【NO.14】からなら南東に徒歩8分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂上あたりの様子など。(写真1)
傾斜は緩やかで全体的には”く”の字形にカーブしている坂道でした。
ちなみにここには、写真1左側にも見えているとおり坂名の由来が書かれている坂の碑がありました。
いつものように抜粋させていただくとですね、
『『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生埋(いきうめ)となった。以来その坂の通行は容易になり、大いに付近は繁栄したという」と記している。』
とありました。
なだらかなのに、ぬめって上れなかったのは、このあたりは低湿地で大雨が降ればすぐに坂道がぬめったからということのようですね。
だから「ぬめり坂」なんですね。
あとは娘のすごい話は言葉がでませんが、いい意味で捉えれば彼女は坂道自身になったとも言えそうですね。
ただ、えらそうに言わせてもらえるとすれば、気の毒に思い自身の命をかけるなら、坂道自体の整備をもっとえらい人に推奨すればよかったのになあと夢のないことを思ってしまうわけでもあるのですがどうでしょうかね(汗)。

写真2
中腹あたりから坂上方向を見てみました。(写真2)
道路の左側に「ぬめり坂の庚申塔」もありました。
このブログで以前に庚申塔がでてきたときにも説明しましたけど、改めて、庚申塔とは?という方に、(というか僕自身も)復習がてらに区は違いますけど、目黒区のHPに「庚申塔(こうしんとう)って何」というページがあり、わかりやすかったので、そのまま抜粋しておきますね。
『寿命を縮めないために 江戸時代に大流行した民間信仰:旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。
病魔・病鬼を払い除くといわれる青面(しょうめん)金剛像や謹慎の態度を表すという三猿を彫ったものをよく見かけますが、文字だけを刻んだものや観音様やお地蔵様の姿のもの、さらには道しるべの標石を兼ねているものもあります。建造した年号・建立者の名前などが刻まれていて村の歴史やその土地の信仰、人々の生活、集落形成の様子などを知る貴重な資料となっています。(略)』
とありました。

写真3
最後は坂下あたりから坂上方向を見てみたものです。(写真3)
写真3左側には、藤森稲荷神社が隣接していました。
創建年代は不詳とのこと。
境内には建物1階分ほどの高低差のある石段もありましたね。
あと、この道というか坂道は昔の鎌倉街道筋だそうです。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都大田区南久が原
関連リンク:
→ 富士見坂 【NO.14】/大田区鵜の木1丁目 - 東京坂道さんぽ
→ 大田区ホームページ:ぬめり坂
→ 庚申塔(こうしんとう)って何 _ 目黒区
坂名:ぬめり坂
住所: 東京都大田区南久が原
今回は、大田区の「ぬめり坂」について取り上げてみたいと思います。
場所は東急多摩川線・下丸子駅の北側エリアにある藤森稲荷神社に隣接している坂道です。
だいぶ前に取り上げた富士見坂 【NO.14】からなら南東に徒歩8分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂上あたりの様子など。(写真1)
傾斜は緩やかで全体的には”く”の字形にカーブしている坂道でした。
ちなみにここには、写真1左側にも見えているとおり坂名の由来が書かれている坂の碑がありました。
いつものように抜粋させていただくとですね、
『『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生埋(いきうめ)となった。以来その坂の通行は容易になり、大いに付近は繁栄したという」と記している。』
とありました。
なだらかなのに、ぬめって上れなかったのは、このあたりは低湿地で大雨が降ればすぐに坂道がぬめったからということのようですね。
だから「ぬめり坂」なんですね。
あとは娘のすごい話は言葉がでませんが、いい意味で捉えれば彼女は坂道自身になったとも言えそうですね。
ただ、えらそうに言わせてもらえるとすれば、気の毒に思い自身の命をかけるなら、坂道自体の整備をもっとえらい人に推奨すればよかったのになあと夢のないことを思ってしまうわけでもあるのですがどうでしょうかね(汗)。

写真2
中腹あたりから坂上方向を見てみました。(写真2)
道路の左側に「ぬめり坂の庚申塔」もありました。
このブログで以前に庚申塔がでてきたときにも説明しましたけど、改めて、庚申塔とは?という方に、(というか僕自身も)復習がてらに区は違いますけど、目黒区のHPに「庚申塔(こうしんとう)って何」というページがあり、わかりやすかったので、そのまま抜粋しておきますね。
『寿命を縮めないために 江戸時代に大流行した民間信仰:旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。
病魔・病鬼を払い除くといわれる青面(しょうめん)金剛像や謹慎の態度を表すという三猿を彫ったものをよく見かけますが、文字だけを刻んだものや観音様やお地蔵様の姿のもの、さらには道しるべの標石を兼ねているものもあります。建造した年号・建立者の名前などが刻まれていて村の歴史やその土地の信仰、人々の生活、集落形成の様子などを知る貴重な資料となっています。(略)』
とありました。

写真3
最後は坂下あたりから坂上方向を見てみたものです。(写真3)
写真3左側には、藤森稲荷神社が隣接していました。
創建年代は不詳とのこと。
境内には建物1階分ほどの高低差のある石段もありましたね。
あと、この道というか坂道は昔の鎌倉街道筋だそうです。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都大田区南久が原
関連リンク:
→ 富士見坂 【NO.14】/大田区鵜の木1丁目 - 東京坂道さんぽ
→ 大田区ホームページ:ぬめり坂
→ 庚申塔(こうしんとう)って何 _ 目黒区