NO. 546
坂名:城山の坂
住所:東京都板橋区志村
今回は板橋区の「城山の坂」について取り上げてみたいと思います。
場所は都営三田線・志村三丁目の南側エリアにある板橋区立志村小学校の南側に隣接している坂道です。
前に取り上げた松山の坂【NO.532】からなら東に徒歩11分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂下あたりの様子など。(写真1)
くねくねと左右にうねりながら上っている坂道でした。
高低差については、ここからでもわかりやすくて、左の崖上くらいだったので、かなりありましたね。

写真2
一気に坂上あたりまできて、坂下方向を見てみました。(写真2)
切り通し感があり、両側もがっつりとコンクリで固められていました。
ただ今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載があったので、古くからある坂道のようでしたね。
ちなみにここには、坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでした。
由来については、諸説ありそうですが、板橋区の資料(いくつかの坂道サイトによれば)などから、写真2右側の崖上一体(今の板橋区立志村小学校一体ですね)が志村城趾で城山とよばれていたことからという説が有力ですね。

写真3
写真2の場所からさらに坂上方向に歩くと、熊野神社があり、入口の鳥居のそばには「志村城趾」と書かれた石碑と「志村城趾と熊野神社」という案内板がありました。(写真3)
それによるとですね、志村城は、康正二(一四五六)年に千葉自胤(室町時代の武将)が赤城城に入場した際、一族の千葉隠岐守信胤が入場して、赤塚城の前衛拠点としたとあり、熊野神社については長久三(一〇四二)年に、志村将監が紀州熊野から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めたということのようです。
なお志村城は”趾”とあるように、これまでの宅地開発でかつての痕跡はほぼなくなってしまったようですね。
唯一、痕跡として残っているのが熊野神社であり、境内には空堀の遺構が残っているとのこと。
あ、あとはこの地形具合もですね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都板橋区志村
関連リンク:
→ 松山の坂【NO.532】/板橋区中台+若木 - 東京坂道さんぽ
→ 城山熊野神社オフィシャルサイト
坂名:城山の坂
住所:東京都板橋区志村
今回は板橋区の「城山の坂」について取り上げてみたいと思います。
場所は都営三田線・志村三丁目の南側エリアにある板橋区立志村小学校の南側に隣接している坂道です。
前に取り上げた松山の坂【NO.532】からなら東に徒歩11分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂下あたりの様子など。(写真1)
くねくねと左右にうねりながら上っている坂道でした。
高低差については、ここからでもわかりやすくて、左の崖上くらいだったので、かなりありましたね。

写真2
一気に坂上あたりまできて、坂下方向を見てみました。(写真2)
切り通し感があり、両側もがっつりとコンクリで固められていました。
ただ今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載があったので、古くからある坂道のようでしたね。
ちなみにここには、坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでした。
由来については、諸説ありそうですが、板橋区の資料(いくつかの坂道サイトによれば)などから、写真2右側の崖上一体(今の板橋区立志村小学校一体ですね)が志村城趾で城山とよばれていたことからという説が有力ですね。

写真3
写真2の場所からさらに坂上方向に歩くと、熊野神社があり、入口の鳥居のそばには「志村城趾」と書かれた石碑と「志村城趾と熊野神社」という案内板がありました。(写真3)
それによるとですね、志村城は、康正二(一四五六)年に千葉自胤(室町時代の武将)が赤城城に入場した際、一族の千葉隠岐守信胤が入場して、赤塚城の前衛拠点としたとあり、熊野神社については長久三(一〇四二)年に、志村将監が紀州熊野から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めたということのようです。
なお志村城は”趾”とあるように、これまでの宅地開発でかつての痕跡はほぼなくなってしまったようですね。
唯一、痕跡として残っているのが熊野神社であり、境内には空堀の遺構が残っているとのこと。
あ、あとはこの地形具合もですね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都板橋区志村
関連リンク:
→ 松山の坂【NO.532】/板橋区中台+若木 - 東京坂道さんぽ
→ 城山熊野神社オフィシャルサイト