NO. 536
坂名:天神坂
住所:東京都板橋区徳丸
今回は、板橋区の天神坂について取り上げてみたいと思います。
場所は東武東上線・東武練馬駅の北西エリアにあり、坂上あたりに徳丸北野神社がある坂道です。
前回取り上げた鷹番ノ坂【NO.535】からなら西へ徒歩2分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂下あたりの様子です。
道幅の狭めな急坂でした。
急坂マニアの方々には必見の坂道でしたね。

写真2
一気に坂上あたりまでやってきて、坂下方向を見てみました。
舗装もドーナツ型の滑り止めになっているとおり、かなりの急勾配でしたね。
そして、その分、眺望もよかったです。
ここは眺望といい、坂下からの風景といい、一度歩くと記憶に残りやすい場所かもですね。
ちなみにここには坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでした。
由来については、ここからさらに徒歩1、2分ほど坂上あたりにある徳丸北野神社に由来しているというのが、有力な説ですね。
一説によるとこの坂道も参道だった可能性もあるとのこと。
ただ今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載がありますが、そこには参道らしき感じの神社から南西に直線的に伸びる道も記されていますけど、これを今の位置と比べてみると、写真2の背後くらいまでのようなので、天神坂=参道説については、自分的には保留ですかね。

写真3
最後は徳丸北野神社の様子です。
正確には神社から南西に直線的に伸びている参道の南端からの神社境内の眺めですかね。
神社の由緒については、公式HPにも記載があり、いろいろと興味深いことが書かれてあったので、一部そのまま抜粋させていただくとですね、
『当社が所蔵する社宝『天神宮紀』によれば、一條院正暦年中(990〜994)に、この地に疫病が流行し、里人等大勢の者がこの病により暴死した。この時、里人の一人徳麿(とくまろ)の夢に大神様が現れ、当地にある梅の古木に祈願するようお告げがあった。お告げの通り梅下により、疫病の癒えん事を謹拝して去った所、奇妙な効果(霊験)が得られ疫病はことごとく去って行った。そこで、梅はまさしく聖廟天神の珍愛されたことから、山城国(京都)北野天満宮より御分霊を戴き、当地に祠を設けて、天満宮と号した。第66代一條院長徳元年乙羊(995)正月11日御幣帛を捧げ、大前に田夫の業を以て俳優(わざおぎ)となし、神威を安んじ奉った。この田夫の業とは、今の国重要無形民俗文化財「田遊び神事」の事で創建以来一年も休まず続けられている。以降、1,000年以上この地に鎮座し徳丸郷の氏神(徳丸・高島平、新河岸地区)として、合格学問成就・邪気祓・病気平癒の守護神として広く崇敬を集めている。』
とありました。
要は長徳元年(995年)、山城国(京都)北野天満宮より分霊し、建立され、当初は天満宮と呼ばれていたということですかね。
かなり歴史のある神社だったのですね。
そして国の重要無形民俗文化財にもなっている「田遊び」も1000年以上続いているというのもすごいですね。
板橋区のHPにも「田遊び」について記載があったので、一部抜粋させていただくとですね、
『田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事です。稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りで、板橋区では、「徳丸北野神社田遊び」と「赤塚諏訪神社田遊び」が国の重要無形民俗文化財に指定されています。』
とありました。
あと、徳丸北野神社境内には「徳丸富士」という富士塚もあるらしいですね。
いやはや知らなかったです。
というか他のかたのネット情報をみると、当日はまさにその横を通っていたみたいです。(汗)
また再訪する機会でもあればたしかめてみたいと思います。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都板橋区徳
関連リンク:
→ 鷹番ノ坂【NO.535】/板橋区徳丸 - 東京坂道さんぽ
→ 徳丸北野神社 御由緒 アクセス - 徳丸北野神社 公式ホームページ!
→ 国指定重要無形民俗文化財「田遊び」|板橋区公式ホームページ
坂名:天神坂
住所:東京都板橋区徳丸
今回は、板橋区の天神坂について取り上げてみたいと思います。
場所は東武東上線・東武練馬駅の北西エリアにあり、坂上あたりに徳丸北野神社がある坂道です。
前回取り上げた鷹番ノ坂【NO.535】からなら西へ徒歩2分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂下あたりの様子です。
道幅の狭めな急坂でした。
急坂マニアの方々には必見の坂道でしたね。

写真2
一気に坂上あたりまでやってきて、坂下方向を見てみました。
舗装もドーナツ型の滑り止めになっているとおり、かなりの急勾配でしたね。
そして、その分、眺望もよかったです。
ここは眺望といい、坂下からの風景といい、一度歩くと記憶に残りやすい場所かもですね。
ちなみにここには坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでした。
由来については、ここからさらに徒歩1、2分ほど坂上あたりにある徳丸北野神社に由来しているというのが、有力な説ですね。
一説によるとこの坂道も参道だった可能性もあるとのこと。
ただ今昔マップで古地図も見てみると、掲載されている一番古い明治42年の地図にも今と同じ場所に記載がありますが、そこには参道らしき感じの神社から南西に直線的に伸びる道も記されていますけど、これを今の位置と比べてみると、写真2の背後くらいまでのようなので、天神坂=参道説については、自分的には保留ですかね。

写真3
最後は徳丸北野神社の様子です。
正確には神社から南西に直線的に伸びている参道の南端からの神社境内の眺めですかね。
神社の由緒については、公式HPにも記載があり、いろいろと興味深いことが書かれてあったので、一部そのまま抜粋させていただくとですね、
『当社が所蔵する社宝『天神宮紀』によれば、一條院正暦年中(990〜994)に、この地に疫病が流行し、里人等大勢の者がこの病により暴死した。この時、里人の一人徳麿(とくまろ)の夢に大神様が現れ、当地にある梅の古木に祈願するようお告げがあった。お告げの通り梅下により、疫病の癒えん事を謹拝して去った所、奇妙な効果(霊験)が得られ疫病はことごとく去って行った。そこで、梅はまさしく聖廟天神の珍愛されたことから、山城国(京都)北野天満宮より御分霊を戴き、当地に祠を設けて、天満宮と号した。第66代一條院長徳元年乙羊(995)正月11日御幣帛を捧げ、大前に田夫の業を以て俳優(わざおぎ)となし、神威を安んじ奉った。この田夫の業とは、今の国重要無形民俗文化財「田遊び神事」の事で創建以来一年も休まず続けられている。以降、1,000年以上この地に鎮座し徳丸郷の氏神(徳丸・高島平、新河岸地区)として、合格学問成就・邪気祓・病気平癒の守護神として広く崇敬を集めている。』
とありました。
要は長徳元年(995年)、山城国(京都)北野天満宮より分霊し、建立され、当初は天満宮と呼ばれていたということですかね。
かなり歴史のある神社だったのですね。
そして国の重要無形民俗文化財にもなっている「田遊び」も1000年以上続いているというのもすごいですね。
板橋区のHPにも「田遊び」について記載があったので、一部抜粋させていただくとですね、
『田遊びは、旧正月にその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し神に奉納する行事です。稲作の作業内容を唱える言葉と所作を田の神に奉納し、豊作を祈願する予祝の祭りで、板橋区では、「徳丸北野神社田遊び」と「赤塚諏訪神社田遊び」が国の重要無形民俗文化財に指定されています。』
とありました。
あと、徳丸北野神社境内には「徳丸富士」という富士塚もあるらしいですね。
いやはや知らなかったです。
というか他のかたのネット情報をみると、当日はまさにその横を通っていたみたいです。(汗)
また再訪する機会でもあればたしかめてみたいと思います。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都板橋区徳
関連リンク:
→ 鷹番ノ坂【NO.535】/板橋区徳丸 - 東京坂道さんぽ
→ 徳丸北野神社 御由緒 アクセス - 徳丸北野神社 公式ホームページ!
→ 国指定重要無形民俗文化財「田遊び」|板橋区公式ホームページ