NO. 505
坂名:暗闇坂
住所:東京都文京区本郷+弥生
今回は、文京区の暗闇坂について取り上げてみたいと思います。
場所は東京大学の北東側に隣接していて、坂道途中には東大弥生門もありますね。
前に取り上げた無縁坂【NO.504】からなら北西に徒歩8分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂上あたりの様子です。(写真1)
緩やかな坂道でした。
坂道風景的にはこのあたりが見どころですかね。
右側には東大工学部の校舎があるようでしたね。
そういえば、大学建築学科時代にお世話になったゼミの担当教授もここの大学の出身でしたね。
懐かしい。でも気がつけばけっこう昔ですね。(^^)
ただ卒業研究で坂道を題材にした論文を書くのを教授が許可してくれたおかげで(そうなんです。論文のために都内の富士見坂をすべて調査したんですよ。)、このブログもあるのかと思うとなかなか興味深い思い出ですね。

写真2
坂下に近い中腹あたりより、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
直線だけど、微妙にくねくねしているのは昔からの坂道ぽい雰囲気でしたね。
あとは写真2右側にはかつて立原道造記念館があったようです。
2011年2月20日に閉館したとのことなので、だいぶ前ですけどね。
この坂道は場所柄やはりいろんな方の興味を引くようで、自身のブログなどで取り上げていることが多く、けっこう古い情報も残っているんですよ。

写真3
写真2左側でも見えていましたけど、東京大学の弥生門も隣接していました。(写真3)
せっかくなのでパチリと。

写真4
坂下あたりの様子など。(写真4)
このあたりから写真4背後はほぼ平坦でした。
(正面に救急車写ってますけど、急病人がいたらしく調査中ずっといたので、仕方なく写っております。)
この右側には弥生美術館と竹久夢二美術館がありました。
ちなみにここには、坂名の由来が書かれた案内板はありませんでした。
ただ、昔はこの写真4の右側あたりにあったようですね。
こちらも場所柄だと思いますけど、案内板の写真を公開してくれているサイトがいくつかありまして、それを参考に抜粋させていただいたところ、
『江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。 』
とありました。
挿絵画家、高畠華宵の記念碑は今もありましたね。
あとは、プチ情報として Tokyo Explorer's Mapなるサイトさんの記事によれば、写真4右側の竹久夢二美術館の壁には「東京大学医学部戦没同窓生之碑」もあったようですね。
同サイトの記事では『竹久夢二美術館の壁には、「東京大学医学部戦没同窓生之碑」があります。東大の向かいですから、このような碑があるわけですが、説明書きを見ると、どうやら医学部の同窓生の方は、大学構内に碑を作りたかったようですが、医学部教授会より許可が下りず、大学構外にこの碑を作ったようです。 』とも書かれてありました。
ただ僕の訪れたときはそのようなものはなかったですね。
そういう意味では、坂道の案内板やら東京大学医学部戦没同窓生之碑やらといろいろと撤去されているのは気になるところでしたね。

写真5
最後は、弥生美術館の様子など。
弁護士・鹿野琢見によって1984年6月に創設された私立美術館とのこと。
ウィキペディアによれば、2009年に皇后美智子さまが来館し、「創刊100周年記念 日本で最も愛された少女雑誌『少女の友』展」を観覧したそうですよ。
あと調べてみたら、弥生美術館の公式SNS(X(旧twitter))にて2019年に皇后さまが『少女の友』展をプライベートで観覧されたということもつぶやいていましたね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図
東京都文京区本郷+弥生
関連リンク:
→ 無縁坂【NO.504】/ 文京区湯島&本郷 +台東区池之端 /森鴎外「雁」の舞台 - 東京坂道さんぽ
→ 弥生美術館・竹久夢二美術館
坂名:暗闇坂
住所:東京都文京区本郷+弥生
今回は、文京区の暗闇坂について取り上げてみたいと思います。
場所は東京大学の北東側に隣接していて、坂道途中には東大弥生門もありますね。
前に取り上げた無縁坂【NO.504】からなら北西に徒歩8分ほどのところにあります。

写真1
まずは坂上あたりの様子です。(写真1)
緩やかな坂道でした。
坂道風景的にはこのあたりが見どころですかね。
右側には東大工学部の校舎があるようでしたね。
そういえば、大学建築学科時代にお世話になったゼミの担当教授もここの大学の出身でしたね。
懐かしい。でも気がつけばけっこう昔ですね。(^^)
ただ卒業研究で坂道を題材にした論文を書くのを教授が許可してくれたおかげで(そうなんです。論文のために都内の富士見坂をすべて調査したんですよ。)、このブログもあるのかと思うとなかなか興味深い思い出ですね。

写真2
坂下に近い中腹あたりより、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
直線だけど、微妙にくねくねしているのは昔からの坂道ぽい雰囲気でしたね。
あとは写真2右側にはかつて立原道造記念館があったようです。
2011年2月20日に閉館したとのことなので、だいぶ前ですけどね。
この坂道は場所柄やはりいろんな方の興味を引くようで、自身のブログなどで取り上げていることが多く、けっこう古い情報も残っているんですよ。

写真3
写真2左側でも見えていましたけど、東京大学の弥生門も隣接していました。(写真3)
せっかくなのでパチリと。

写真4
坂下あたりの様子など。(写真4)
このあたりから写真4背後はほぼ平坦でした。
(正面に救急車写ってますけど、急病人がいたらしく調査中ずっといたので、仕方なく写っております。)
この右側には弥生美術館と竹久夢二美術館がありました。
ちなみにここには、坂名の由来が書かれた案内板はありませんでした。
ただ、昔はこの写真4の右側あたりにあったようですね。
こちらも場所柄だと思いますけど、案内板の写真を公開してくれているサイトがいくつかありまして、それを参考に抜粋させていただいたところ、
『江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。 』
とありました。
挿絵画家、高畠華宵の記念碑は今もありましたね。
あとは、プチ情報として Tokyo Explorer's Mapなるサイトさんの記事によれば、写真4右側の竹久夢二美術館の壁には「東京大学医学部戦没同窓生之碑」もあったようですね。
同サイトの記事では『竹久夢二美術館の壁には、「東京大学医学部戦没同窓生之碑」があります。東大の向かいですから、このような碑があるわけですが、説明書きを見ると、どうやら医学部の同窓生の方は、大学構内に碑を作りたかったようですが、医学部教授会より許可が下りず、大学構外にこの碑を作ったようです。 』とも書かれてありました。
ただ僕の訪れたときはそのようなものはなかったですね。
そういう意味では、坂道の案内板やら東京大学医学部戦没同窓生之碑やらといろいろと撤去されているのは気になるところでしたね。

写真5
最後は、弥生美術館の様子など。
弁護士・鹿野琢見によって1984年6月に創設された私立美術館とのこと。
ウィキペディアによれば、2009年に皇后美智子さまが来館し、「創刊100周年記念 日本で最も愛された少女雑誌『少女の友』展」を観覧したそうですよ。
あと調べてみたら、弥生美術館の公式SNS(X(旧twitter))にて2019年に皇后さまが『少女の友』展をプライベートで観覧されたということもつぶやいていましたね。
ということで、今回はこんな感じです。
地図
東京都文京区本郷+弥生
関連リンク:
→ 無縁坂【NO.504】/ 文京区湯島&本郷 +台東区池之端 /森鴎外「雁」の舞台 - 東京坂道さんぽ
→ 弥生美術館・竹久夢二美術館