最近ひさびさに司馬遼太郎の「街道をゆく37・本郷界隈」 を読んでたら、新坂(福山坂)【NO.470】も取り上げられていましたね。

新坂(福山坂)【NO.470】その2-1
写真1

新坂(福山坂)【NO.470】の途中にあった案内板です。(写真1)
前回でも載せましたし、写真でも読めるんですけど、改めて抜粋しておくとですね、
『『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷に通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また、福山藩にちなんで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。坂の上、一帯は学者町といわれ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。 』
とあります。

最初でも触れたとおり、司馬遼太郎の「街道をゆく37・本郷界隈」 では、「福山坂」と題して、かつてこのあたりにあった福山藩のことを深掘りしていましたね。
12ページにもわたっているので、引用は無理ですけど、おそらく彼もこの案内板(写真1)を現地で読んで、前半部分のところを彼なりに話を広げたのかなと。

あと興味深かったのは、新坂(福山坂)【NO.470】の風景についても同書で語っていましたね。
短いので、引用させていただくとですね、
『坂は造成された早々、「新坂」とよばれた。また阿部氏の備後福山にちなんで、福山坂ともよばれた。いまは福山坂の呼称のほうが、おこなわれているらしい。 坂は、広い。くだって行って途中でたたずむと、東側が旧備後福山藩邸のはしで、たかだかと崖になっている。崖は、崩れをふせぐため石垣になぞらえたコンクリートでかためられ、見あげると、崖の上のはしにまで家が建てられている。みな白っぽくて、高安月郊の明治四十二年の文章がいうように雅味に欠けるようである。 この福山坂の西側が、崖下というか、谷になって落ちこんでいる。 その落ちこんだあたりに一葉の旧居跡がある。ただ福山坂からは、崖下にあふれる家々に はばまれて見通しがきかない。 』

いやはや、よいですね。
実地による文章で坂道風景を伝えるとはこういうことなのかなと。
いつかこういう風に書けたらいいなあなんて思いますけど、僕のレベルでは一生無理かも。(^^)
とりあえず、現地での写真は前回の記事の新坂(福山坂)【NO.470】のほうで載せてますので、坂道風景みながら読んでみると興味深いですね。

新坂(福山坂)【NO.470】その2-2
写真2

坂上あたりからさらに坂上に行き、傾斜が始まりだしたあたりの様子です。(写真2)
街道をゆく37では、『やがて坂になって、西片町ー旧藩邸ーの台地が低い白山通りへとくだっている。この坂も、明治のとき市街地化されるときに掘削されたものである。坂の上の台上の一点に、漱石旧居の跡がある。』という一文もありましたね。
読んだ限りでは、写真2の場所がけっこう近い場所なのかなと思い、載せてみました。
写真2左側の電柱にも「西片1-12」と書かれていますしね。
ただ現地には漱石旧居跡なんていう案内板などはなかったはずなので、妄想レベルなんですけどね。

ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
文京区白山

関連リンク:  
 →   新坂(福山坂)【NO.470】/文京区白山 - 東京坂道さんぽ
→   街道をゆく(37)新装版 本郷界隈 (朝日文庫) [ 司馬遼太郎 ]   -  楽天ブックス