NO. 497
坂名:団子坂、潮見坂、七面坂、千駄木坂
住所:東京都文京区千駄木
今回は文京区の団子坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、東京メトロ千代田線・千駄木駅の地上部分から西へ上っている坂道なので、駅出口からなら徒歩0分といった具合の立地です。
また前に取り上げた三崎坂【NO.494】からなら西へ徒歩2分ほどの場所ですかね。

写真1
まずは坂下あたりの様子など。
東京メトロ千代田線・千駄木駅はこの写真1手前の不忍通りの地下を左右に走っているという立地具合でしたね。
形状的には高低差もあって、途中から左にカーブしている坂道でした。
団子坂といえば、なんといっても江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」のD坂のモチーフになっていることでも有名ですよね。
「D坂の殺人事件」は青空文庫でも無料で読めるので確認してみると、冒頭からそれらしき描写がありましたね。
以下はその部分の抜粋です。
『それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中程にある、白梅軒という、行きつけのカフェで、冷しコーヒーを啜っていた。(略)。この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だった所で、狭かった通りが、市区改正で取拡げられ、何間道路とかいう大通になって間もなくだから、まだ大通の両側に所々空地などもあって、今よりずっと淋しかった時分の話だ。大通を越して白梅軒の丁度真向うに、一軒の古本屋がある。実は私は、先程から、そこの店先を眺めていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段眺める程の景色でもないのだが、私には一寸特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合になった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をして見ると如何にも変り者で、それで頭がよさ相で、私の惚れ込んだことには、探偵小説好なのだが、その男の幼馴染の女が今ではこの古本屋の女房になっているという事を、この前、彼から聞いていたからだった。 』
あとで出てきますけど、団子坂はかつて菊人形の名所だった所でもあるので、そういう意味でも、D坂=団子坂という説はうわさどおりかなり有力ということですね。

写真2
中腹あたりから坂下方向を見てみました。
このあたりまで比較的ゆるやかな傾斜でしたね。
そしてこの背後あたりには、坂名の由来が書かれた案内板がありました。
いつものように抜粋させていただくとですね、
『潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考) 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。 また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。 「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 』
とありました。
別名も含めて、坂名の由来ついてはすべて網羅されていますね。
あとは説明に「幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び・・・」とあるとおり、ここは上記でもふれたとおり、菊人形の名所だったようですね。
菊人形と団子坂でいえば、夏目漱石の「三四郎」で、いくつか描写がでてきますね。
その中のひとつを抜粋させていただきます。
『ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右の生垣をながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。
坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。坂を曲がる時は幟(のぼり)さえ見えた。今はただ声だけ聞こえる、どんちゃんどんちゃん遠くからはやしている。そのはやしの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはきわめて稀薄な波になる。そのまた余波が三四郎の鼓膜のそばまで来てしぜんにとまる。騒がしいというよりはかえっていい心持ちである。 』
あとは、
『団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて言った。よし子は「まあよかった」という。
坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。広田先生はこの坂の上に立って、「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずが)けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れている。 』
なんて描写もありました。
とにかくこれ以外にも菊人形と団子坂の話は、小説のいたるところで登場していましたね。

画像
団子坂と菊人形の見世物といえば、「団子坂之菊」という新撰東京名所図会(明治40年)に掲載されたこの絵ですかね。
団子坂の坂下からの風景を描いているようですね。
当時の賑わいの様子がわかりますね。

写真3
場所としては前後するのですが、団子坂の坂下からさらに東(坂下方面)へ80mほど行ったところには「菊見煎餅総本店」もありました。
菊見せんべいが有名なお店で、菊見せんべいは団子坂で菊や菊人形の見世物が行われていた頃の見物客の手土産としても重宝されていたとのこと。
公式HPによれば、森鷗外や高村光雲、高村光太郎にも親しまれていたそうですよ。

写真4
場所を戻しまして、坂上あたりから坂下方向を見てみたものです。
けっこうな高低差でした。
両側のマンションのおかげで、なんだか切通しのような雰囲気がありますけど、別名で「潮見坂」と名付けられているとおり、このあたりから昔は東京湾あたりも見えたそうですね。
ちなみに、そのあたりのことは、森鴎外の「細木香以」に描写がありました。
『団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道(そばみち)に似た小径がある。これを藪下やぶしたの道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺の小家であった。
崖の上は向岡(むこうがおか)から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、この端と向岡との間が豁然(かつぜん)として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。 』
森鴎外もこのあたりに住んでいたようですね。
坂名の説明にもありましたけど。
あとは、坂名の由来の説明にはでてこなかったですが、実は室生犀星の「抒情小曲集」にも団子坂に関する文章がありました。
こちらも青空文庫で無料公開されていたので抜粋するとですね、
『坂 (=団子坂のことらしいです)
街かどにかかりしとき
坂の上にらんらんと日は落ちつつあり
円形のリズムはさかんなる廻転にうちつれ
樹は炎となる
つねにつねにカンヴスを破り
つねにつねに悪酒に浸れるわが友は
わが熱したる身をかき抱き
ともに夕陽のリズムに聴きとらんとはせり
しんに夕の麺麭をもとめんに
もはや絶えてよしなければ
ただ総身はガラスのごとく透きとほり
らんらんとして落ちむとする日のなかに
喜びいさみつつ踊る
わが友よ
ただ聞け上野寛永寺の鐘のひびきも
いんいんたる炎なり
立ちて為すすべしなければ
ただ踊りつつ涙ぐむ炎なり
おろかなる再生を思慕することはなく
君はブラツシユをもて踊れ
われまづしき詩篇に火を放ち
踊り狂ひて死にゆかむ
さらにみよ
坂の上に転ろびつつ日はしづむ
そのごとく踊りつつ転ろびつつ
坂を上らむとするにあらずや 』
とありました。
ふむむ。

写真5
最後は坂上すぐの場所にあった「文京区立森鴎外記念館」の外観など。
森鴎外の旧居「観潮楼」の跡地に建てられたものだそうです。
モダンなつくりですね。
ちなみに設計は陶器二三雄建築研究所とのことで、BCS賞も受賞している建物とのこと。
建築好きの方にもおすすめの建物かもですね。
ということで、長くなり、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都文京区千駄木
関連リンク:
→ D坂の殺人事件 (創元推理文庫) [ 江戸川乱歩 ] 楽天ブックス
→ 三四郎改版 (岩波文庫) [ 夏目漱石 ] 楽天ブックス
坂名:団子坂、潮見坂、七面坂、千駄木坂
住所:東京都文京区千駄木
今回は文京区の団子坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、東京メトロ千代田線・千駄木駅の地上部分から西へ上っている坂道なので、駅出口からなら徒歩0分といった具合の立地です。
また前に取り上げた三崎坂【NO.494】からなら西へ徒歩2分ほどの場所ですかね。

写真1
まずは坂下あたりの様子など。
東京メトロ千代田線・千駄木駅はこの写真1手前の不忍通りの地下を左右に走っているという立地具合でしたね。
形状的には高低差もあって、途中から左にカーブしている坂道でした。
団子坂といえば、なんといっても江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」のD坂のモチーフになっていることでも有名ですよね。
「D坂の殺人事件」は青空文庫でも無料で読めるので確認してみると、冒頭からそれらしき描写がありましたね。
以下はその部分の抜粋です。
『それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中程にある、白梅軒という、行きつけのカフェで、冷しコーヒーを啜っていた。(略)。この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だった所で、狭かった通りが、市区改正で取拡げられ、何間道路とかいう大通になって間もなくだから、まだ大通の両側に所々空地などもあって、今よりずっと淋しかった時分の話だ。大通を越して白梅軒の丁度真向うに、一軒の古本屋がある。実は私は、先程から、そこの店先を眺めていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段眺める程の景色でもないのだが、私には一寸特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合になった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をして見ると如何にも変り者で、それで頭がよさ相で、私の惚れ込んだことには、探偵小説好なのだが、その男の幼馴染の女が今ではこの古本屋の女房になっているという事を、この前、彼から聞いていたからだった。 』
あとで出てきますけど、団子坂はかつて菊人形の名所だった所でもあるので、そういう意味でも、D坂=団子坂という説はうわさどおりかなり有力ということですね。

写真2
中腹あたりから坂下方向を見てみました。
このあたりまで比較的ゆるやかな傾斜でしたね。
そしてこの背後あたりには、坂名の由来が書かれた案内板がありました。
いつものように抜粋させていただくとですね、
『潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考) 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。 また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。 「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 』
とありました。
別名も含めて、坂名の由来ついてはすべて網羅されていますね。
あとは説明に「幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び・・・」とあるとおり、ここは上記でもふれたとおり、菊人形の名所だったようですね。
菊人形と団子坂でいえば、夏目漱石の「三四郎」で、いくつか描写がでてきますね。
その中のひとつを抜粋させていただきます。
『ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右の生垣をながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。
坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。坂を曲がる時は幟(のぼり)さえ見えた。今はただ声だけ聞こえる、どんちゃんどんちゃん遠くからはやしている。そのはやしの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはきわめて稀薄な波になる。そのまた余波が三四郎の鼓膜のそばまで来てしぜんにとまる。騒がしいというよりはかえっていい心持ちである。 』
あとは、
『団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて言った。よし子は「まあよかった」という。
坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。広田先生はこの坂の上に立って、「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずが)けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れている。 』
なんて描写もありました。
とにかくこれ以外にも菊人形と団子坂の話は、小説のいたるところで登場していましたね。

画像
団子坂と菊人形の見世物といえば、「団子坂之菊」という新撰東京名所図会(明治40年)に掲載されたこの絵ですかね。
団子坂の坂下からの風景を描いているようですね。
当時の賑わいの様子がわかりますね。

写真3
場所としては前後するのですが、団子坂の坂下からさらに東(坂下方面)へ80mほど行ったところには「菊見煎餅総本店」もありました。
菊見せんべいが有名なお店で、菊見せんべいは団子坂で菊や菊人形の見世物が行われていた頃の見物客の手土産としても重宝されていたとのこと。
公式HPによれば、森鷗外や高村光雲、高村光太郎にも親しまれていたそうですよ。

写真4
場所を戻しまして、坂上あたりから坂下方向を見てみたものです。
けっこうな高低差でした。
両側のマンションのおかげで、なんだか切通しのような雰囲気がありますけど、別名で「潮見坂」と名付けられているとおり、このあたりから昔は東京湾あたりも見えたそうですね。
ちなみに、そのあたりのことは、森鴎外の「細木香以」に描写がありました。
『団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道(そばみち)に似た小径がある。これを藪下やぶしたの道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺の小家であった。
崖の上は向岡(むこうがおか)から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、この端と向岡との間が豁然(かつぜん)として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。 』
森鴎外もこのあたりに住んでいたようですね。
坂名の説明にもありましたけど。
あとは、坂名の由来の説明にはでてこなかったですが、実は室生犀星の「抒情小曲集」にも団子坂に関する文章がありました。
こちらも青空文庫で無料公開されていたので抜粋するとですね、
『坂 (=団子坂のことらしいです)
街かどにかかりしとき
坂の上にらんらんと日は落ちつつあり
円形のリズムはさかんなる廻転にうちつれ
樹は炎となる
つねにつねにカンヴスを破り
つねにつねに悪酒に浸れるわが友は
わが熱したる身をかき抱き
ともに夕陽のリズムに聴きとらんとはせり
しんに夕の麺麭をもとめんに
もはや絶えてよしなければ
ただ総身はガラスのごとく透きとほり
らんらんとして落ちむとする日のなかに
喜びいさみつつ踊る
わが友よ
ただ聞け上野寛永寺の鐘のひびきも
いんいんたる炎なり
立ちて為すすべしなければ
ただ踊りつつ涙ぐむ炎なり
おろかなる再生を思慕することはなく
君はブラツシユをもて踊れ
われまづしき詩篇に火を放ち
踊り狂ひて死にゆかむ
さらにみよ
坂の上に転ろびつつ日はしづむ
そのごとく踊りつつ転ろびつつ
坂を上らむとするにあらずや 』
とありました。
ふむむ。

写真5
最後は坂上すぐの場所にあった「文京区立森鴎外記念館」の外観など。
森鴎外の旧居「観潮楼」の跡地に建てられたものだそうです。
モダンなつくりですね。
ちなみに設計は陶器二三雄建築研究所とのことで、BCS賞も受賞している建物とのこと。
建築好きの方にもおすすめの建物かもですね。
ということで、長くなり、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図:東京都文京区千駄木
関連リンク:
→ D坂の殺人事件 (創元推理文庫) [ 江戸川乱歩 ] 楽天ブックス
→ 三四郎改版 (岩波文庫) [ 夏目漱石 ] 楽天ブックス