NO. 496
坂名:赤字坂、明治(あかじ)坂
住所:東京都台東区谷中
今回は、台東区の赤字坂について取り上げてみたいと思います。
場所は妙法寺の南側にあり、前回取り上げた真島坂【NO.495】からなら南東に徒歩2分ほどのところにあります。
最寄り駅は東京メトロ千代田線・根津駅ですかね。

写真1
まずは坂下あたりの様子など。(写真1)
ここもまっすぐな坂道でした。
高低差もけっこうあるようでしたね。

写真2
写真1のすぐ背後には旅館「澤の屋」がありました。(写真2)
公式HPをみると、外国人に人気の旅館ということみたいでしたね。
(余談ですけど、さらりと楽天トラベルでも予約できるのかなと思って調べてみましたけど、でてこなかったので、やはり外国人向けにかなり特化している旅館みたいですね。違ってたらすみません。)

写真3
中腹あたりから坂上方向を見てみたものです。(写真3)
写真3左の石垣が立派でしたね。
インフォメーションボードのつくりも凝ってましたし。
ちなみにここには、坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでしたが、「江戸東京坂道事典」には、ここが赤字坂とあり、さらに本文では興味深い史実の記述があったので、一部抜粋させていただくとですね、
『明治末から昭和の初めにかけて相場師の渡辺治右衛門の屋敷であった。彼は明治元年に美濃国海津郡須町の吉田耕平の二男に生まれて勝太郎と称していたが、大垣の素封家渡辺治右衛門の養子になり、養父の歿後はその家産と名前を継ぎ、高須銀行、大垣共立銀行、第七十六銀行などの役員と して地方金融界に貢献した。明治四十一年それらをすべて辞して、東京に進出し株式仲買店をひらいて巨富を得たが、昭和二年の財界恐慌によって破産し、浅草精光寺に寄㝢して同五年にさびしく歿した。赤宇坂の名は、渡辺治右衛門が破産したころにつけられた町の人々の皮肉な呼び名である。 この坂頂から西に折れて三崎坂を下ると、不忍通りをはさみ団子坂に対するが、団子坂上に居した文豪森鷗外の後妻は二代目渡辺治右衛門の前妻であったのも人世の皮肉と いえようか。 』
とありました。
一部抜粋とはいえ長いですね。(汗)
長いことはともかく、ここは渡辺治右衛門(ワタナベ・ジエモン)由来とも言えそうですね。
なお渡辺治右衛門については、この文だけでもだいたいわかりますけど、コトバンクにも人物説明がありました。
『10代目治右衛門を襲名し、二十七国立銀行、東京湾汽船、あかぢ貯蓄銀行の事業を継ぐ。明治45年旭日生命保険、ついで渡辺倉庫、渡辺保険会社を設立。大正9年二十七銀行を東京渡辺銀行に改称、頭取となる。12年の関東大震災により経営が悪化、のち同行および関係企業は倒産し、東京屈指の資本家であった渡辺家は10代目の死去とともに財産を放棄した。』
”東京屈指の資本家”はわかりやすいですね。
「江戸東京坂道事典」とはいくぶん違うような気もしますけど、この本は50年ほど前に書かれたものがベースになっているはずなので、おそらくコトバンクのほうが信頼にたるのかもしれないですね。
赤字坂の”赤字”については、「江戸東京坂道事典」では破産話と結びつけていましたけど、コトバンクの人物説明では「あかぢ貯蓄銀行」という名前もでてきていたので、意外とこのあたりから坂名はふくらんでつけられたのかなとも思ったのですが、どうなんでしょうね。
あとは明治(あかじ)坂という別名もあるようですね。
これは『渡辺治右衛は日本橋で「明石屋」という乾物屋を営んでいたので、通称・明石屋治右衛門といった。それが略されて「明治[あかじ]」と呼ばれ、坂ができたときには明治坂(あかじざか)の名を持っていた。』(「江戸と東京の坂」より)だったからとのこと。

写真4
最後は坂上からの眺めなど。(写真4)
高低差と両側の石垣や樹木のおかげで、なかなか印象的な坂道風景だったかもですね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都台東区谷中
関連リンク:
→ 真島坂【NO.495】/台東区谷中 - 東京坂道さんぽ
→ 渡辺 治右衛門(ワタナベ ジエモン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
坂名:赤字坂、明治(あかじ)坂
住所:東京都台東区谷中
今回は、台東区の赤字坂について取り上げてみたいと思います。
場所は妙法寺の南側にあり、前回取り上げた真島坂【NO.495】からなら南東に徒歩2分ほどのところにあります。
最寄り駅は東京メトロ千代田線・根津駅ですかね。

写真1
まずは坂下あたりの様子など。(写真1)
ここもまっすぐな坂道でした。
高低差もけっこうあるようでしたね。

写真2
写真1のすぐ背後には旅館「澤の屋」がありました。(写真2)
公式HPをみると、外国人に人気の旅館ということみたいでしたね。
(余談ですけど、さらりと楽天トラベルでも予約できるのかなと思って調べてみましたけど、でてこなかったので、やはり外国人向けにかなり特化している旅館みたいですね。違ってたらすみません。)

写真3
中腹あたりから坂上方向を見てみたものです。(写真3)
写真3左の石垣が立派でしたね。
インフォメーションボードのつくりも凝ってましたし。
ちなみにここには、坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでしたが、「江戸東京坂道事典」には、ここが赤字坂とあり、さらに本文では興味深い史実の記述があったので、一部抜粋させていただくとですね、
『明治末から昭和の初めにかけて相場師の渡辺治右衛門の屋敷であった。彼は明治元年に美濃国海津郡須町の吉田耕平の二男に生まれて勝太郎と称していたが、大垣の素封家渡辺治右衛門の養子になり、養父の歿後はその家産と名前を継ぎ、高須銀行、大垣共立銀行、第七十六銀行などの役員と して地方金融界に貢献した。明治四十一年それらをすべて辞して、東京に進出し株式仲買店をひらいて巨富を得たが、昭和二年の財界恐慌によって破産し、浅草精光寺に寄㝢して同五年にさびしく歿した。赤宇坂の名は、渡辺治右衛門が破産したころにつけられた町の人々の皮肉な呼び名である。 この坂頂から西に折れて三崎坂を下ると、不忍通りをはさみ団子坂に対するが、団子坂上に居した文豪森鷗外の後妻は二代目渡辺治右衛門の前妻であったのも人世の皮肉と いえようか。 』
とありました。
一部抜粋とはいえ長いですね。(汗)
長いことはともかく、ここは渡辺治右衛門(ワタナベ・ジエモン)由来とも言えそうですね。
なお渡辺治右衛門については、この文だけでもだいたいわかりますけど、コトバンクにも人物説明がありました。
『10代目治右衛門を襲名し、二十七国立銀行、東京湾汽船、あかぢ貯蓄銀行の事業を継ぐ。明治45年旭日生命保険、ついで渡辺倉庫、渡辺保険会社を設立。大正9年二十七銀行を東京渡辺銀行に改称、頭取となる。12年の関東大震災により経営が悪化、のち同行および関係企業は倒産し、東京屈指の資本家であった渡辺家は10代目の死去とともに財産を放棄した。』
”東京屈指の資本家”はわかりやすいですね。
「江戸東京坂道事典」とはいくぶん違うような気もしますけど、この本は50年ほど前に書かれたものがベースになっているはずなので、おそらくコトバンクのほうが信頼にたるのかもしれないですね。
赤字坂の”赤字”については、「江戸東京坂道事典」では破産話と結びつけていましたけど、コトバンクの人物説明では「あかぢ貯蓄銀行」という名前もでてきていたので、意外とこのあたりから坂名はふくらんでつけられたのかなとも思ったのですが、どうなんでしょうね。
あとは明治(あかじ)坂という別名もあるようですね。
これは『渡辺治右衛は日本橋で「明石屋」という乾物屋を営んでいたので、通称・明石屋治右衛門といった。それが略されて「明治[あかじ]」と呼ばれ、坂ができたときには明治坂(あかじざか)の名を持っていた。』(「江戸と東京の坂」より)だったからとのこと。

写真4
最後は坂上からの眺めなど。(写真4)
高低差と両側の石垣や樹木のおかげで、なかなか印象的な坂道風景だったかもですね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
東京都台東区谷中
関連リンク:
→ 真島坂【NO.495】/台東区谷中 - 東京坂道さんぽ
→ 渡辺 治右衛門(ワタナベ ジエモン)とは? 意味や使い方 - コトバンク