今回は、再開発中の麻布台ヒルズのすぐ北側にある六本木1丁目の六本木ファーストプラザの坂道からすこし話を広げて取り上げてみたいと思います。

ここ数日、すこし時間ができたので、ひさびさに『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』(鈴木博之・著)を再読してみると、最初の章で六本木1丁目の六本木ファーストプラザあたりのことが取り上げられていて、あの場所といえばちょうど今再開発中の麻布台ヒルズのすぐ北側なんですよね。

六本木1丁目の坂道と林野庁宿舎跡地1+
写真1

そんなわけで、以前撮った坂道写真を整理してみると(この時間が実は至福のひとときなんです)、やはり六本木ファーストプラザ内の坂道を撮っていましたよ。 (写真1)
高低差もあり崖地の坂道でした。
写真1の背後が再開発中の麻布台ヒルズという立地具合で、ちょうど六本木ファーストプラザと麻布台ヒルズの間を通っている道路から撮ったものです。
絵になりますね。

ちなみに、この坂道のある六本木ファーストプラザの土地、『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』の1章(民活第一号の土地にまつわる薄幸)の中で、著者の鈴木博之氏は、”なぜか印象に残る土地”と書かれていました。
どうやらここは、六本木ファーストプラザができる前は林野庁の土地だったらしく、歴史をたどると、日本で最初に国有地の払い下げがおこなわれた土地らしいです。
購入したのは森ビル。
そんなこともあり、鈴木博之氏は調べはじめたようですね。

『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』によると、江戸時代は武家地で、幕末には岩手盛岡の南部遠江守(とおとうみのかみ)の屋敷があり、その後、静寛院宮(せいかんいんのみや:静寛院宮とは皇女和宮のことです)邸→東久邇宮(くにのみや)邸→林野庁の土地(林野庁宿舎)という経緯をたどったそうです。
そして、書籍では、静寛院宮や東久邇宮の人物史にもふれつつ、”このような小さな土地の物語のなかにこそ、都市の真実が含まれているのではないか”と書かれていました。

さらに、いまは再開発でなくなってしまった六本木1丁目から神谷町駅へ抜ける私道とおぼしき道を皇女和宮が明治時代になってから、ひっそりとお忍びで使われたこともあるかもしれないと考えれば、この道は江戸と東京をつなぐ細道のようにも見えてくるとも書かれていました。
そして、その道に漂うものこそ、静寛院宮にまつわる地霊なのであると締められていました。

軽い要約のようになってしまいましたが、細道=坂道と捉え直してみると、僕の探しているものもすこしは見えてきたような気がしましたね。
今更ながらですけど。

そういう意味でも(おそらく鈴木博之氏とは見る視点というか思想は多々違っていそうですが、例えばJAZZにしてもいろんな思想の人が演奏するわけなので)、地霊(ゲニウス・ロキ)という点で言えば、坂道視点も加えつつ自分なりにいろんな土地を調べてバージョンアップしてみたい(研究?)ですね。

六本木1丁目の坂道と林野庁宿舎跡地2
画像

こちらは、同じく『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』の中で、引用されていた「明治9年、静寛院宮邸時代」の古地図を使わせていただき、絵図にしたものです。
この古地図では、明治9年の「静寛院宮亭」周辺の坂道も記録されていました。
大まかですけど、真ん中の灰色の部分が今回の対象地である静寛院宮亭で、緑で塗られた部分は御組坂【NO.65】、黄色は我善坊谷坂【NO.95】、青色は落合坂【NO.64】ですね。
このうち、我善坊谷坂【NO.95】と落合坂【NO.64】が麻布台ヒルズの再開発のため無くなったので、いまあるのは御組坂【NO.65】だけです。
ちなみに、書籍で静寛院宮にまつわる地霊と書かれていた細道は、「静寛院宮亭」の右側あたりにあったようです。
「静寛院宮亭」の敷地と各坂道の位置関係をみながら、当時の様子を想像してみるとなんとも興味深いです。

六本木1丁目の坂道と林野庁宿舎跡地3+
写真2

最後は、今回の坂道の坂下にあたる場所から、東京タワー方向を見てみたものです。 (写真2)
東京タワー、このときはよく見えましたね。
今も同じように見えるかどうかは不明ですけど。
そして手前には我善坊谷坂【NO.95】もあったんですよね。
今は無くなってしまった坂道を現地で実際に歩けたことは、僕のささやかな自慢かもですね。

ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
東京都港区六本木1丁目9

関連リンク:  
→ 東京の地霊 (ちくま学芸文庫) [ 鈴木博之 ] by楽天ブックス
→ 御組坂【NO.65】/港区六本木 - 東京坂道さんぽ
→ 我善坊谷坂【NO.95】/港区麻布台1丁目 - 東京坂道さんぽ
→ 落合坂【NO.64】/港区麻布台 - 東京坂道さんぽ