NO. 465
坂名:二寧坂 (二年坂)
住所:京都府京都市東山区桝屋町
今回は二寧坂 (二年坂)について取り上げてみたいと思います。
坂下あたりは一念坂【NO.464】と接していて、坂上は産寧坂(三年坂)にも接しているという立地具合で、京都でも指折りの観光名所としても知られています。
最寄り駅は、京阪本線・祇園四条駅か阪急京都線・河原町駅あたりですかね。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。 (写真1)
コロナ前の写真ということもあり、人が多すぎて、景色が見えにくいですけど、大正時代に今のような風景になり、その後、近年になって電線も地中化され、伝統的建造物群保存地区などいくつかの景観系の条例などが指定されている場所のため、今もこのような雰囲気や景観が残されているようですね。
とにかく京都らしい坂道風景でやはり風情がありますね。
写真2
中腹あたりまできて、坂上方向を見てみました。 (写真2)
このあたりから階段になっていました。
カーブしているのもいいですね。
あとはこのすぐ右側(写真2でいえば)には「竹久夢二寓居跡」なる石碑もありましたね。
この地に下宿し,2カ月ほど暮らしたということらしいです。
写真3
写真2でもちらりと見えていましたが、階段のはじまり部分には「京の坂みち 二寧坂」と書かれた石碑がありました。 (写真3)
平成2年(1990年)に設置されたものらしく、一念坂【NO.464】の坂名がつけられた時期ともだいたい同じなので、おそらく電線の地中化など坂道が再整備された時期がそのあたりなんでしょうね。
そしてこのすぐ上には、坂名の由来が書かれた案内板もありまして、そのまま抜粋させていただくとですね、
『この坂道は古くからあったが産寧坂(三年坂)の手前の坂という意味で、この名が通り名となった。「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えは「石段、坂道は気をつけて」と云う警句が語り伝えられたものと思われる。「坊日誌」によると「宝暦八年(1758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。以来この付近は「桝屋町」と称する。大正初期、現在の家並みとなり、国の町並保存地域に指定されている。 』
とありました。
説明にある「「坊日誌」によると「宝暦八年(1758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。」とあるのは、一念坂【NO.464】と同じく、ここも江戸時代に町人であった桝屋喜兵衛の開発により成立した街ということでしょうね。
なお、大同2年(西暦807年)に坂が整備された時より今の坂名が付けられたという説もありますが、どちらにしても産寧坂(三年坂)とセットでつけられたのは変わりないかもしれないですね。
ただこのことから、この二寧坂 (二年坂)は807年からある(すなわち1216年前からある)坂道とも解釈できるかも。
写真4
坂道の石があるあたりの階段から坂下方向を見てみたものです。 (写真4)
いいですね。
この景色をみると坂道沿いのお店や建物についても取り上げてみたくなりますが、それについてはまたそのうち再訪したときに詳しく調べてみますよ。
写真5
最後は坂上からの眺めなど。 (写真5)
カーブしているので、このあたりから写真を撮る観光客は少ないのかもしれないですけど、よくよく眺めてみると興味深い坂道風景でしたね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
京都府京都市東山区桝屋町
関連リンク:
→ 一念坂【NO.464】/京都市東山区桝屋町 - 東京坂道さんぽ
→ 京都:京の坂道 一念坂・二寧坂(二年坂) / 古都に燃える会
坂名:二寧坂 (二年坂)
住所:京都府京都市東山区桝屋町
今回は二寧坂 (二年坂)について取り上げてみたいと思います。
坂下あたりは一念坂【NO.464】と接していて、坂上は産寧坂(三年坂)にも接しているという立地具合で、京都でも指折りの観光名所としても知られています。
最寄り駅は、京阪本線・祇園四条駅か阪急京都線・河原町駅あたりですかね。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。 (写真1)
コロナ前の写真ということもあり、人が多すぎて、景色が見えにくいですけど、大正時代に今のような風景になり、その後、近年になって電線も地中化され、伝統的建造物群保存地区などいくつかの景観系の条例などが指定されている場所のため、今もこのような雰囲気や景観が残されているようですね。
とにかく京都らしい坂道風景でやはり風情がありますね。
写真2
中腹あたりまできて、坂上方向を見てみました。 (写真2)
このあたりから階段になっていました。
カーブしているのもいいですね。
あとはこのすぐ右側(写真2でいえば)には「竹久夢二寓居跡」なる石碑もありましたね。
この地に下宿し,2カ月ほど暮らしたということらしいです。
写真3
写真2でもちらりと見えていましたが、階段のはじまり部分には「京の坂みち 二寧坂」と書かれた石碑がありました。 (写真3)
平成2年(1990年)に設置されたものらしく、一念坂【NO.464】の坂名がつけられた時期ともだいたい同じなので、おそらく電線の地中化など坂道が再整備された時期がそのあたりなんでしょうね。
そしてこのすぐ上には、坂名の由来が書かれた案内板もありまして、そのまま抜粋させていただくとですね、
『この坂道は古くからあったが産寧坂(三年坂)の手前の坂という意味で、この名が通り名となった。「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えは「石段、坂道は気をつけて」と云う警句が語り伝えられたものと思われる。「坊日誌」によると「宝暦八年(1758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。以来この付近は「桝屋町」と称する。大正初期、現在の家並みとなり、国の町並保存地域に指定されている。 』
とありました。
説明にある「「坊日誌」によると「宝暦八年(1758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。」とあるのは、一念坂【NO.464】と同じく、ここも江戸時代に町人であった桝屋喜兵衛の開発により成立した街ということでしょうね。
なお、大同2年(西暦807年)に坂が整備された時より今の坂名が付けられたという説もありますが、どちらにしても産寧坂(三年坂)とセットでつけられたのは変わりないかもしれないですね。
ただこのことから、この二寧坂 (二年坂)は807年からある(すなわち1216年前からある)坂道とも解釈できるかも。
写真4
坂道の石があるあたりの階段から坂下方向を見てみたものです。 (写真4)
いいですね。
この景色をみると坂道沿いのお店や建物についても取り上げてみたくなりますが、それについてはまたそのうち再訪したときに詳しく調べてみますよ。
写真5
最後は坂上からの眺めなど。 (写真5)
カーブしているので、このあたりから写真を撮る観光客は少ないのかもしれないですけど、よくよく眺めてみると興味深い坂道風景でしたね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
京都府京都市東山区桝屋町
関連リンク:
→ 一念坂【NO.464】/京都市東山区桝屋町 - 東京坂道さんぽ
→ 京都:京の坂道 一念坂・二寧坂(二年坂) / 古都に燃える会