今回は新宿区の観音坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、前回取り上げた戒行寺坂【NO.431】から北に徒歩1分ほどのところにあります。
最寄り駅でいえば、JR四谷駅ですかね。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。(写真1)
傾斜はドーナツ型の滑り止めの舗装も見えるとおり、きつめの坂道でしたね。
そして切通の雰囲気も。
すでに坂の碑が見えていますので、内容を抜粋させていただくとですね、
『西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた。 』
とありました。
いやはや興味深い由来ですね。
写真2
写真1の左側には真成院がありました。 (写真2)
坂名はこのお寺の潮踏観音にちなむということみたいですね。
あと公式HPもあって、由緒についても書かれていたので一部抜粋するとですね、
『当寺院は、豊臣秀吉が死去した年にあたる慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、 本堂と観音堂が失われてしまったものの、天保八年(1837)に再建。 その頃に描かれた『江戸名所図会』では、「四谷の四名所の一つ」に数えられています。』
とありました。
やはり古くからあるお寺だったんですね。
画像
真成院の由緒で触れられていた江戸名所図会はこちらのようですね。
タイトルは「日宗寺 戒行寺 汐干観音 」といいます。
実はこの絵、前回の戒行寺坂【NO.431】でもでてきたんですよ。
絵の位置関係でいえば、左側が「戒行寺」、右上が「日宗寺」、そして右下が今回の「真成院(汐干観音)」ということになるようですね。
そして、絵には真成院の下(絵でいえば右下)に道も描かれていて、よくみると「観音坂」と書かれてあるんですよ。
なので、この絵は位置的にこの坂道の坂上あたりにある西念寺あたりから描いたもののように思えますね。
とにかく江戸名所図会にも坂名が書かれているということは、当時から有名な坂道だったのかもしれないですね。
写真3
現代に戻りまして、坂の中腹あたりから坂下方向を見てみました。 (写真3)
ここからだと、真成院向かいの信壽院の建物もよく見えましたね。
しかも高低差的にも、すでにここの時点で建物3階分ほどの高さがありそうでしたね。
写真4
最後は坂上あたりからの眺めです。 (写真4)
ここからだと信壽院の建物の屋根あたりの高さはありそうなので、高低差的には建物5階分くらいの高さはありそうでしたね。
しかも、この坂道は軸線的に富士山が見られる方向に下っているので、江戸時代の低層の建物ばかりだった頃なら坂上から富士山も見られたかもしれないですね。
そして、写真4の左には、西念寺が位置しています。
昔は表門が、この坂に面していたとも言われています。
だから別名で西念寺坂とも言われているみたいですね。
ちなみにこの西念寺は、(現在放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」でもおなじみの)服部半蔵(正成)の開基によって、松平信康(徳川家康の長男)の供養の為に開創されたお寺とのことらしいですよ。
大河ドラマ「どうする家康」でもちょうど最近の7月2日の回でしたかね、服部半蔵と松平信康の演出的にも力の入った悲しい話がでてきましたよね。
なおドラマを見ていない方にもわかる簡易な説明が西念寺の公式HPにあったので、一部抜粋させていただくとですね、
『徳川家康公と奥方築山殿との間に長子として生まれ、武勇に優れ将来を嘱望された信康公は、徳川家と同盟関係にあり、天下を望む織田信長公の注目する所となり、その娘を娶りました。しかし、信長公は信康公の優秀さへの恐れと猜疑心により、噂にすぎない信康公の乱心を理由に(一説には武田勝頼公との内通を疑われ)信康公の切腹を家康公に要求してきました。この信長公の非情な命令に背くことができず、徳川家安泰と織田家との同盟関係維持の為、家康公は断腸の思いで、最愛の長子信康公に切腹を言い渡しました。この信康公の切腹の際に介錯を任ぜられたのが半蔵正成公でした。しかし「鬼半蔵」の異名をとった正成公と雖も、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることはできず、遂にこの役目を果たすことができませんでした。このことから世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入りました。』
とありました。
そして、公式HPには次のようなことも書かれてありました。
『寛永11年(1634)江戸城外廊拡張に伴う外濠新設の為、幕府の政策により濠の外に集団的に各寺院を配置し、当寺もその際に現在地に至りました。』
要は、かつての西念寺は今のホテルニューオータニ近くの清水谷公園あたりにあったのを、今の地に移ったということが書かれているわけです。
そういう意味では、この今の地に西念寺が置かれたのは、この高台から(当時は)富士山が見えたことがけっこうな要因だったのでは?、と妄想してみたのですけど、実際のところはどうだったんでしょうね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
新宿区若葉
関連リンク:
→ 真成院の歴史|金鶏山 真成院―四谷霊廟(新宿の室内霊園・納骨堂)
→ お寺の由緒・歴史|浄土宗西念寺|新宿区の四谷にある服部半蔵が開基したお寺
→ 第25回 静岡県浜松市 | 紀行潤礼 | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK
→ 戒行寺坂【NO.431】/新宿区須賀町 - 東京坂道さんぽ
場所は、前回取り上げた戒行寺坂【NO.431】から北に徒歩1分ほどのところにあります。
最寄り駅でいえば、JR四谷駅ですかね。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。(写真1)
傾斜はドーナツ型の滑り止めの舗装も見えるとおり、きつめの坂道でしたね。
そして切通の雰囲気も。
すでに坂の碑が見えていますので、内容を抜粋させていただくとですね、
『西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた。 』
とありました。
いやはや興味深い由来ですね。
写真2
写真1の左側には真成院がありました。 (写真2)
坂名はこのお寺の潮踏観音にちなむということみたいですね。
あと公式HPもあって、由緒についても書かれていたので一部抜粋するとですね、
『当寺院は、豊臣秀吉が死去した年にあたる慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、 本堂と観音堂が失われてしまったものの、天保八年(1837)に再建。 その頃に描かれた『江戸名所図会』では、「四谷の四名所の一つ」に数えられています。』
とありました。
やはり古くからあるお寺だったんですね。
画像
真成院の由緒で触れられていた江戸名所図会はこちらのようですね。
タイトルは「日宗寺 戒行寺 汐干観音 」といいます。
実はこの絵、前回の戒行寺坂【NO.431】でもでてきたんですよ。
絵の位置関係でいえば、左側が「戒行寺」、右上が「日宗寺」、そして右下が今回の「真成院(汐干観音)」ということになるようですね。
そして、絵には真成院の下(絵でいえば右下)に道も描かれていて、よくみると「観音坂」と書かれてあるんですよ。
なので、この絵は位置的にこの坂道の坂上あたりにある西念寺あたりから描いたもののように思えますね。
とにかく江戸名所図会にも坂名が書かれているということは、当時から有名な坂道だったのかもしれないですね。
写真3
現代に戻りまして、坂の中腹あたりから坂下方向を見てみました。 (写真3)
ここからだと、真成院向かいの信壽院の建物もよく見えましたね。
しかも高低差的にも、すでにここの時点で建物3階分ほどの高さがありそうでしたね。
写真4
最後は坂上あたりからの眺めです。 (写真4)
ここからだと信壽院の建物の屋根あたりの高さはありそうなので、高低差的には建物5階分くらいの高さはありそうでしたね。
しかも、この坂道は軸線的に富士山が見られる方向に下っているので、江戸時代の低層の建物ばかりだった頃なら坂上から富士山も見られたかもしれないですね。
そして、写真4の左には、西念寺が位置しています。
昔は表門が、この坂に面していたとも言われています。
だから別名で西念寺坂とも言われているみたいですね。
ちなみにこの西念寺は、(現在放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」でもおなじみの)服部半蔵(正成)の開基によって、松平信康(徳川家康の長男)の供養の為に開創されたお寺とのことらしいですよ。
大河ドラマ「どうする家康」でもちょうど最近の7月2日の回でしたかね、服部半蔵と松平信康の演出的にも力の入った悲しい話がでてきましたよね。
なおドラマを見ていない方にもわかる簡易な説明が西念寺の公式HPにあったので、一部抜粋させていただくとですね、
『徳川家康公と奥方築山殿との間に長子として生まれ、武勇に優れ将来を嘱望された信康公は、徳川家と同盟関係にあり、天下を望む織田信長公の注目する所となり、その娘を娶りました。しかし、信長公は信康公の優秀さへの恐れと猜疑心により、噂にすぎない信康公の乱心を理由に(一説には武田勝頼公との内通を疑われ)信康公の切腹を家康公に要求してきました。この信長公の非情な命令に背くことができず、徳川家安泰と織田家との同盟関係維持の為、家康公は断腸の思いで、最愛の長子信康公に切腹を言い渡しました。この信康公の切腹の際に介錯を任ぜられたのが半蔵正成公でした。しかし「鬼半蔵」の異名をとった正成公と雖も、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることはできず、遂にこの役目を果たすことができませんでした。このことから世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入りました。』
とありました。
そして、公式HPには次のようなことも書かれてありました。
『寛永11年(1634)江戸城外廊拡張に伴う外濠新設の為、幕府の政策により濠の外に集団的に各寺院を配置し、当寺もその際に現在地に至りました。』
要は、かつての西念寺は今のホテルニューオータニ近くの清水谷公園あたりにあったのを、今の地に移ったということが書かれているわけです。
そういう意味では、この今の地に西念寺が置かれたのは、この高台から(当時は)富士山が見えたことがけっこうな要因だったのでは?、と妄想してみたのですけど、実際のところはどうだったんでしょうね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
新宿区若葉
関連リンク:
→ 真成院の歴史|金鶏山 真成院―四谷霊廟(新宿の室内霊園・納骨堂)
→ お寺の由緒・歴史|浄土宗西念寺|新宿区の四谷にある服部半蔵が開基したお寺
→ 第25回 静岡県浜松市 | 紀行潤礼 | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK
→ 戒行寺坂【NO.431】/新宿区須賀町 - 東京坂道さんぽ