今回は、横溝正史の小説「病院坂の首縊りの家 」の聖地とも言われている坂道が、魚籃坂( NO.407)のそばにあったので、ぶらりとしてきました。

小説「病院坂の首縊りの家 」の聖地、ピーコック坂をぶらり1+
写真1

それがこちらですね。 (写真1)
坂道の中腹あたりからのものです。
カーブしていて、けっこうな高低差もあり、いい坂道でしたね。
場所でいえば、魚籃坂( NO.407)の坂下にあるピーコックストア高輪魚籃坂店の北側から南西に上っている坂道ですね。

ただですね、ここは魚籃坂( NO.407)の調査のついでに歩いていて、なかなかいい坂道だなと思いたまたま撮ったものだったので、これ一枚なのですよ。
なので、ここがあの小説「病院坂の首縊りの家 」の聖地だったことはあとで知ることになるわけですね。

ではなぜここが、「病院坂の首縊りの家 」の聖地なのかというのは、本(小説)の冒頭のまえがきで、病院坂について語っている一文があり、みなさん(ファンの方)そこから探したものと思われ、該当する部分は短いものなので、そのまま抜粋させていただくとですね、
『私がこれからお話しようとしている問題の坂は魚藍坂のちかくにあり、この坂にも江戸時代から呼びならわされた、由緒正しき名前があるのだけれど、坂の途中に大きな病院があるところから、いつのほどよりか病院坂と呼ばれるようになっていたので、私もこのまがまがしい物語のなかではその名を踏襲することにする。その病院こそはこの物語のなかで、大きなウエイトを占めているのだから。
(略)これからお話しようとしている病院坂には、いまもなおその坂の名のいわれとなった、法眼病院という大きな総合病院が繁栄しており、昭和四十八年度版の地図にはその名が記入されている。 』
とありました。

これから、魚藍坂=病院坂ではないことはすぐにわかりますよね。
ただ読み方が悪いのかもしれないですけど、この書き方だと、問題の坂道にも由緒正しき名前があるとも読めるので、そこは謎ですね。
そして法眼病院ですが、この書き方だと、ほんとうにあった病院なのかなと思い、いちおう今昔マップで昭和48年前後の古地図をみてみたのですけど、やはり病院らしきものがなく、そこのところも謎なので、また詳しい当時の住宅地図などを図書館で調べてみるしかないかもですね。
ちなみに、この坂道のある場所、昭和20年の地図では高輪御殿の敷地内だったようで、今のような形になって記載されているのは昭和41年からでしたね。

なおタイトルに「ピーコック坂」としたのは、もともとこの坂道は無名坂なのですが、「病院坂の首縊りの家 」 のwikipediaに「この坂道には特段の名称はないが、付近住民には、坂下に所在するスーパーマーケット「ピーコック」の名をとって「ピーコック坂」の名が定着している。」とあったからですね。
ここまで堂々と書いてあれば、wikipediaのうわさは知っていますけど、もうそう呼んでもいいのかなと。(汗)
なので、「ピーコック坂」はあくまで愛称として、とらえていますのであしからず。

ではこれからぼちぼちと「病院坂の首縊りの家」読みますよ。(金田一耕助シリーズは好きで大学生の頃かなり読んだはずなんですけど、これは読んだ記憶がないので。汗)
またなにか新しい発見(違う場所の可能性もあるのでないかという事も含めて)があれば、そのうちブログなりで書くと思います。

ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
港区高輪

関連リンク:
→ 魚籃坂( NO.407)/港区三田+ 高輪 - 東京坂道さんぽ
→ 病院坂の首縊りの家(上) 金田一耕助ファイル20 amazon