今回は、港区の伊皿子坂を取り上げてみたいと思います。
場所は、JR高輪ゲートウェイ駅の北西に位置しており、最寄り駅でいえば京急・泉岳寺駅から西へ徒歩2分ほどのところにあります。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。 (写真1)
地図でみると全体的にくねくねしている道で、カーブ具合が印象的でしたね。
写真2
写真1の左側すぐの場所には泉岳寺がありました。 (写真2)
写真2は泉岳寺の中門ですね。
ちなみに泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚を迎えて開山されたとのことですが、寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、3代将軍家光の命により現在の高輪の地に移転されたとのこと。
またここは赤穂四十七義士の墓所としても知られていて、現在は赤穂義士記念館も境内にあったりします。
写真3
坂道に戻りまして、坂道の中腹あたりから坂下方向を見てみたものです。 (写真3)
このあたりは傾斜もかなり緩やかでしたね。
あとは写真3右側にも見えているとおり、幸福の科学・東京正心館の建物がすごい存在感でしたね。
写真4
写真3とだいたい同じ場所から、坂上方向見てみました。 (写真4)
このあたりから傾斜がきつくなっていました。
カーブ具合もいい感じでしたね。
ちなみに、このカーブが続く形状は、江戸時代の古地図(江戸切絵図)を見てもそのままでしたね。
違うのは道幅だけだと思います。
写真5
坂上あたりまできて、坂下方向を見てみました。 (写真5)
ここまでくると坂下との高低差もかなりありましたね。
あとは、写真5でも見えているとおり、坂名の由来が書かれている坂の碑があったので、内容をそのまま抜粋するとですね、『中国人伊皿子(いんべいす) が住んでいたと伝えらえるが、ほかに 大仏(おさらぎ) のなまりともいいさらふ(意味不明)の変化ともいう。 』とありました。
また江戸東京坂道事典には、別の視点からの説が紹介されていて、そちらも一部抜粋するとですね、『「新撰東京名所図会」には「伊皿子坂は聖坂の南、伊皿子町より田町九丁目に下る坂をいふ。旧名は潮見坂にて古名を潮見崎と呼べり。此坂より東望すれば芝浦は脚下に在りて潮汐の進退明らかに見るを得れば名つく。」とかかれている。 』とありましたね。
なので、伊皿子坂は伊皿子という町名由来(町名は人物由来?)で、坂道からは海も望めたということで、別名で潮見坂と呼ばれていたということみたいですね。
なお、ここは永井荷風の「日和下駄」にも記載があり、「芝伊皿子台上の汐見坂も、天然の地形と距離との宜しきが故に、品川の御台場依然として昔の名所図絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様•・••」とかかれているとのこと。
画像1
そこでこの古い風景絵ですね。
江戸名所図会の潮見坂です。
これ、以前に潮見坂(NO.299)でも取り上げた風景絵で、記事を書いたときはこの風景絵は潮見坂(NO.299)を描いたものですとしたんですけど、実は記事の絵の横の説明(潮見坂(NO.299)の記事参照)には、読みにくいですけど新撰東京名所図会とほぼ同じ内容で「聖坂の南、伊皿子町より田町九丁目に下る坂をいふ。」が書かれてあるんですよね。
しかも江戸東京坂道事典では、この絵は伊皿子坂(潮見坂)の昔の風景を描いてものだと紹介されているんですよ。
たしかに聖坂( NO.300)の南にあるし、古地図みても今の坂下界隈にある高輪ゲートウェイあたりは海だったので、この図の位置関係ともあうんですよね。
さて、どうしましょうかね。
でもおそらく江戸東京坂道事典の主張が正しそうなので、これからはこの絵の場所は?と聞かれたら、伊皿子坂の風景ですと答えるようにしましょうかね。
画像2
あと、こちらはばっちり場所もあってるかと思いますが、「東都名所坂つくしの内 伊皿子潮見坂之図」ですね。
歌川広重によって天保後期(1830-44)に描かれたものらしいです。
ただこちら、坂上あたりを北東側からみて描いたものだとすると、坂道は右から左に下っているとすれば絵の奥にこれほど海が見えているのはどこかおかしいと思うんですけど、そこのところはデフォルメなんですかね。
それにしても、昔はここからほんとよく海見えたんですね。
そういう意味では、いつから坂道名が伊皿子坂に変わってしまったのか気になるところですね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
港区三田+ 高輪
関連リンク:
→ 港区ホームページ/伊皿子坂
→ 曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺
→ 潮見坂(NO.299)&聖坂(NO.300) /港区 - 東京坂道さんぽ
場所は、JR高輪ゲートウェイ駅の北西に位置しており、最寄り駅でいえば京急・泉岳寺駅から西へ徒歩2分ほどのところにあります。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。 (写真1)
地図でみると全体的にくねくねしている道で、カーブ具合が印象的でしたね。
写真2
写真1の左側すぐの場所には泉岳寺がありました。 (写真2)
写真2は泉岳寺の中門ですね。
ちなみに泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚を迎えて開山されたとのことですが、寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、3代将軍家光の命により現在の高輪の地に移転されたとのこと。
またここは赤穂四十七義士の墓所としても知られていて、現在は赤穂義士記念館も境内にあったりします。
写真3
坂道に戻りまして、坂道の中腹あたりから坂下方向を見てみたものです。 (写真3)
このあたりは傾斜もかなり緩やかでしたね。
あとは写真3右側にも見えているとおり、幸福の科学・東京正心館の建物がすごい存在感でしたね。
写真4
写真3とだいたい同じ場所から、坂上方向見てみました。 (写真4)
このあたりから傾斜がきつくなっていました。
カーブ具合もいい感じでしたね。
ちなみに、このカーブが続く形状は、江戸時代の古地図(江戸切絵図)を見てもそのままでしたね。
違うのは道幅だけだと思います。
写真5
坂上あたりまできて、坂下方向を見てみました。 (写真5)
ここまでくると坂下との高低差もかなりありましたね。
あとは、写真5でも見えているとおり、坂名の由来が書かれている坂の碑があったので、内容をそのまま抜粋するとですね、『中国人伊皿子(いんべいす) が住んでいたと伝えらえるが、ほかに 大仏(おさらぎ) のなまりともいいさらふ(意味不明)の変化ともいう。 』とありました。
また江戸東京坂道事典には、別の視点からの説が紹介されていて、そちらも一部抜粋するとですね、『「新撰東京名所図会」には「伊皿子坂は聖坂の南、伊皿子町より田町九丁目に下る坂をいふ。旧名は潮見坂にて古名を潮見崎と呼べり。此坂より東望すれば芝浦は脚下に在りて潮汐の進退明らかに見るを得れば名つく。」とかかれている。 』とありましたね。
なので、伊皿子坂は伊皿子という町名由来(町名は人物由来?)で、坂道からは海も望めたということで、別名で潮見坂と呼ばれていたということみたいですね。
なお、ここは永井荷風の「日和下駄」にも記載があり、「芝伊皿子台上の汐見坂も、天然の地形と距離との宜しきが故に、品川の御台場依然として昔の名所図絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様•・••」とかかれているとのこと。
画像1
そこでこの古い風景絵ですね。
江戸名所図会の潮見坂です。
これ、以前に潮見坂(NO.299)でも取り上げた風景絵で、記事を書いたときはこの風景絵は潮見坂(NO.299)を描いたものですとしたんですけど、実は記事の絵の横の説明(潮見坂(NO.299)の記事参照)には、読みにくいですけど新撰東京名所図会とほぼ同じ内容で「聖坂の南、伊皿子町より田町九丁目に下る坂をいふ。」が書かれてあるんですよね。
しかも江戸東京坂道事典では、この絵は伊皿子坂(潮見坂)の昔の風景を描いてものだと紹介されているんですよ。
たしかに聖坂( NO.300)の南にあるし、古地図みても今の坂下界隈にある高輪ゲートウェイあたりは海だったので、この図の位置関係ともあうんですよね。
さて、どうしましょうかね。
でもおそらく江戸東京坂道事典の主張が正しそうなので、これからはこの絵の場所は?と聞かれたら、伊皿子坂の風景ですと答えるようにしましょうかね。
画像2
あと、こちらはばっちり場所もあってるかと思いますが、「東都名所坂つくしの内 伊皿子潮見坂之図」ですね。
歌川広重によって天保後期(1830-44)に描かれたものらしいです。
ただこちら、坂上あたりを北東側からみて描いたものだとすると、坂道は右から左に下っているとすれば絵の奥にこれほど海が見えているのはどこかおかしいと思うんですけど、そこのところはデフォルメなんですかね。
それにしても、昔はここからほんとよく海見えたんですね。
そういう意味では、いつから坂道名が伊皿子坂に変わってしまったのか気になるところですね。
ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。
地図
港区三田+ 高輪
関連リンク:
→ 港区ホームページ/伊皿子坂
→ 曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺
→ 潮見坂(NO.299)&聖坂(NO.300) /港区 - 東京坂道さんぽ