今回は、文京区の鷺(さぎ)坂について取り上げてみたいと思います。
場所は、前回取り上げた大日坂( NO.398)から西へ徒歩2分ほどのところにあり、最寄り駅でいえば、東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅から北へ徒歩5分ほどのところにあります。

鷺坂( NO.393)1+
写真1

まずは坂下からの風景など。 (写真1)
いきなり急坂でしたね。
しかも雰囲気もいいですね。

この傾斜具合が気になるところですが、残念ながら現地では計測してなかったんですよね。
ただですね、中村雅夫さんによる坂道本「東京の坂」にですね、さすが江戸の坂道ということもあり、傾斜具合の記載があり、それによると傾斜11.7°(20.7%)とのことで、ドーナツ型の滑りどめがついていることもあわせて、やはりかなりの急坂のようですね。

鷺坂( NO.393)2+
写真2

こちらは、写真1でも見えていた踊り場的な坂道の中腹に設置されていた、坂名の書かれている古い石碑ですね。 (写真2)
そして、この上に文京区が設置した坂名の由来が書かれている案内板があったので、そのまま抜粋するとですね、
『この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892〜1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ(は)張りつゝ(つ)秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。 』
とありました。
いろいろ書いていますけど、要はこの坂道はそれなりに昔からあるようなのですが、当時は無名坂だったようで、その後、昭和になり、説明にあるような文学者の方々により、山城国(現在の京都府南部)の久世の「鷺坂」と結びつけて坂名がつけられたということみたいですね。
あとは写真2の石碑、説明にもあるように昭和7年7月に設置されたものだったんですね。
なんだかもっと古いようにも見えますけどね。

ちなみに、上記の説明の中で、石碑に刻まれている万葉集からの引用とある文「山城の久世の鷺坂神代より春ハ(は)張りつゝ(つ)秋は散りけり」について、試しにBing AIに現代語訳してみて、と聞いてみると『万葉集の第9巻に収録されている柿本人麻呂の歌です。現代語に訳すと、「ここ山城の久世の鷺坂では、神代の昔からこのように春には木々が芽ぶき、秋になると木の葉が散って、時は巡っているのである」という意味になります。 』と答えがきましたね。
これ、実は「江戸東京坂道事典」にもこの古歌の訳が説明されているんですが、だいたい同じ内容でしたね。
ただ本には柿本人麻呂によるものということは書かれてなかったので、そういう意味では勉強になりました。(^^)

そんなわけで、ここは無名坂が名前のある坂道になる過程が実にわかりやすく記録として残っているという点でも興味深いかもですね。

あとは、写真2にも写ってますけど、この坂道は、急な勾配と昔ながらの石積みが現存し、江戸風情を色濃く残す坂として人々に親しまれていることから、2008年に文京区都市景観賞を受賞しているそうですよ。
歴史も興味深いですが、坂道風景もすばらしいということなのかもですね。

鷺坂( NO.393)3+
写真3

案内板のある中腹から坂下方向を見てみました。 (写真3)
こうしてみると高低差すごいですね。

鷺坂( NO.393)4+
写真4

今度は案内板のある中腹から坂上方向を見てみたものです。 (写真4)
こちらはだいぶ緩やかな(といってもけっこうありますが)坂道でしたが、両側の石垣が印象的でしたね。
さすが文京区都市景観賞の坂道。

鷺坂( NO.393)5+
写真5

最後は坂上あたりからの眺めです。 (写真5)
江戸風情もあり左側の擁壁もすごいですね。

とにかくここは見るポイントで違った風景が見られるようで楽しい坂道でしたね。

ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
文京区小日向

関連リンク:
→ 文京区 鷺坂(さぎざか)
→ 大日坂( NO.398)/ 文京区小日向 - 東京坂道さんぽ