今回は、板橋区の すて場坂 について取り上げてみたいと思います。
場所は、東京メトロ・小竹向原駅から北東に徒歩8分ほどのところにあります。

すて場坂( NO.395)1+
写真1

坂上あたりの様子です。 (写真1)
けっこう高低差のある坂道でしたね。
右側には心身障害児総合医療療育センターの大きな敷地が面していて、敷地内の樹木が街路樹のように道路側にせりだしていて、坂道風景的には緑につつまれた印象に残る風景だったかもですね。

すて場坂( NO.395)2+
写真2

坂の中腹あたりから坂上を方向を見てみたものです。(写真2)
左側の高低差感のある高い擁壁が記憶に残りますね。

ちなみに、ここには坂名の由来が書かれているような坂の碑はありませんでしたが、(このブログもリンクしてくれている)「東京23区の坂道」さんのサイトで、この坂道の名前の由来についてふれていて、それによると、いたばしまち博友の会発行の『郷土 板橋の坂道』にてこの坂道について記載があるとのことで、昔、坂下あたりに牛、馬の捨て場があったことから、そう呼ばれるようになったということみたいです。

ちなみに、捨て場とは?と思い調べていたら、青空文庫で公開されている1924(大正13)年5月初出の喜田貞吉(日本史学者、地理学者)による「牛捨場馬捨場」に、今回のような捨場について触れている著作があり、冒頭にて『今もなお諸所に小字こあざを牛捨場または馬捨場と称する所がある。また小字という程でなくても、俗にそう呼んでいる場所が各地に多く、現に昔は死牛馬をここへ捨てたものだなど伝称せられているところも少くない。これは一体どうしたものか。』と書き残していましたね。
同じようなこと考える人はいるんですよね。(^^)
なお、このあともつらつらと考察文が続いていますので、気になる方はこの記事の最後に青空文庫のページへのリンクもつけておきますのでよかったら。

あと、これは余談ですけど、この「牛捨場馬捨場」の中盤に『此度申さる御年貢差詰り、代々持来り候牛馬引捨の場所比木村勿論朝比奈村上十五日、此両場所金子十五両二分永代売渡申候。此場所に付場役等無二御座一候。依之村方親類は不レ及レ申、脇より違乱妨申旨御座候はゞ、請人の者罷出、急度埒明可レ申、貴殿に少も御苦労掛申間敷候。為二後日一一札仍て如レ件』 と古い日本語で書かれた文章があったので、これまたBing AI にですね、「この古い日本語を、現代語に訳してください。」と試しにきいてみると、なんとなんと訳してくれましたね。(^^)

以下にその文を載せて起きますよ。
『現代語訳:今回お申し付けの年貢の納入について、代々持ち続けてきた牛馬を引き連れて行く場所は木村と朝比奈村ですが、この両方の場所を金子十五両二分で永久に売り渡すことにしました。この場所には役割などは何もありません。それで村の方々や親戚は文句を言わないでください。もしも横から邪魔や妨害をするようなことがあれば、申し立てる人を出して、早く決着をつけてください。貴方には少しでもご苦労をかけないようにしたいと思います。そのために後日改めて手紙を送ります。』

すごいですね、1分もかからないくらいで答えてくれましたよ。
ただこのAIによる訳、細かい部分であってるのか、古文は詳しくないので(ここなんですよね、AIを使う上での問題は、汗)、これを読んでもし違っているとかあれば、この記事のコメント欄なり、このブログへの連絡ページなりにて、知らせていただえればうれしいです。
よろしくお願いします。(^^)

すて場坂( NO.395)3+
やり取りの画像のスクショ

いちおうやりとりのスクショも載せておきますね。

すて場坂( NO.395)4+
写真3

話がそれてしまいましたけど、最後は坂下あたりから坂上方向を見てみたものです。 (写真3)
ここからだと、左側の擁壁の高さをみてもわかると思いますけど、坂上あたりとはかなりの高低差があるようでしたね。
加えて、道もカーブしているので、坂道風景的にはなかなか印象的かなと思ったりしました。

なお、ここも今昔マップでみると、公開されている中で一番古い明治42年の地図には記載があるので、かなり古くからあった坂道なんでしょうね。

ということで、けっこう前の写真での紹介となりましたが、今回はこんな感じです。

地図
板橋区小茂根

関連リンク:
→ 喜田貞吉 牛捨場馬捨場 - 青空文庫