今回は、ひさびさに千代田区の皀角坂(NO.220)を訪れたときのことでも。

皀角坂(NO.220)その2-1
写真1

風景的にはそれほど変化はないみたいでしたけど、この近くの女坂(NO.283)と同様に、ここも坂の碑が新しくなっていましたね。 (写真1)
そして、内容も以前のものとすこし変わっていたので、そのまま抜粋するとですね、
『坂名は、サイカチの木が多く植えられていたことから名付けられました。サイカチは、野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、花も実も豆に似ています。現在でも二本のサイカチの木があり、秋になると豆状の実をつけています。 』
とありました。

なんだか、時制がら今の朝ドラ「らんまん」の槙野万太郎(牧野富太郎)が喜びそうな坂名の由来かもなあ、なんてふと思ってみたり。(^^)

皀角坂(NO.220)その2-2
写真2

あとは、これまで歩いたときにもあったみたいですが、記事では触れていなかった案内看板もありました。 (写真2)
読んでみると、「神田上水懸樋跡」とありましたね。
なのでここから奥の神田川に向かって、昔は懸樋が架かってたんでしょうね。

そして「神田上水懸樋(かけひ)跡」といえば、お茶の水坂(NO.320)でもでてきたんですよ。
お茶の水坂(NO.320)は今回の坂道とは神田川をはさんで対岸にある坂道ですからね。

ちなみに、この「神田上水懸樋跡」の案内板もバーコード版の記載があるものだったので、リニューアルされたものだと思います。
なので、そのまま抜粋しておきますね。
『江戸時代、この辺りには神田上水が神田川を越えるために設けた懸樋(かけひ)がありました。1658年〜1661年(万治年間)に架け替えられ、俗に万年樋と呼ばれました。
 神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれ、1596年〜1615年(慶長年間)に整備に着手したといいます。井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とし、現在の文京区関口あたりに堰(せき)が設けられ、小日向台から小石川後楽園を通り水道橋の下流に達しました。懸樋によって神田川を超えた上水は、この辺りから暗渠(埋樋)となり、南は京橋川、東は永代橋より大川(現在の隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋門外まで供給されました。
 なお、関口で神田上水から分水した余水は河川となります。牛込門外(現在の飯田橋)までは「江戸川」、牛込門外から下流は「神田川」と呼ばれました。』

あと、江戸時代の神田上水懸樋の様子も描かれている歌川広重の浮世絵(名所三十六景 東都御茶の水)もあり、それについてはお茶の水坂(NO.320)の記事ですでに載せていますので、気になる方はそちらをどうぞ。

皀角坂(NO.220)その2-3
画像

最後は浮世絵の話がでたついでということで、冨葛飾北斎 による富嶽三十六景「東都駿臺」など。
この絵は今回の皀角坂の坂上あたりから描いている可能性がかなり高いといわれています。
ただ絵をよくみると、手前の坂道の向こうに川が見えていて、遠くには富士山が描かれていることから、おそらくこれは神田川なのかなと予想すると(懸樋がないのが気にはなりますけど)、これもどうやらお茶の水坂(NO.320)からの風景のようにも見えそうですね。
なので、対岸に見えている崖地の向こうが江戸時代の皀角坂ということになるんですかね。
でもまあどっちにしてもこの地形具合ならば、やはり昔は富士山が見える坂道だったんでしょうね。

ということで、今回はこんな感じです。

地図
千代田区神田駿河台

関連リンク:
→ 皀角坂(NO.220)/千代田区神田駿河台 - 東京坂道さんぽ
→ お茶の水坂(NO.320) /文京区本郷 - 東京坂道さんぽ
→ 女坂(NO.283)その2 / 千代田区神田駿河台 - 東京坂道さんぽ
→ 皀角坂/千代田区文化財サイト