日にちが過ぎてしまいましたが、トラベルjpの記事にて『成城学園前すぐ!富士山が見える名所、富士見橋と不動橋めぐり』と題して、成城の富士見橋と不動橋についてを取り上げてみましたので、よかったらどうぞ。
なお今回は珍しく坂道ではなく、橋を取り上げてみたわけですけど、やはりここは富士山が見える橋ということで、富士山つながりの場所として記事にしてみたところが大きいですかね。
あとは今回調べた感じでは、ここは地域でも有名な富士山見物スポットであり、そこがたまたま展望台などではなく橋だったという感じも見受けられて地形話の延長としても捉えられるのではないかと思ったこともあります。
ただまあ、今後坂道ネタがつきれば(しばらくはなさそうですが)違う展開になるかもしれないですが。(笑)
そんなわけで、ここからはいつものおまけ写真でも。
写真1
富士見坂橋に設置されていた「関東の富士百景」の案内板ですね。(写真1)
ここが富士見スポットという意味で置かれていて、たまたま見えるポイントが橋だったという感じともとれそうですかね。
ちなみにこれと同じ内容のプレートが不動橋のほうにも設置されていました。
写真2
こちらは富士見橋のほうに設置されている額縁のように富士山と界隈の風景を切り取って見られる眺望スペースにあったものです。(写真2)
記事のほうでは小さくて見にくかったので、ここにて拡大してみました。
ここは世田谷百景の場所でもあるんですね。
おそらく描かれている絵は浮世絵風に現在の橋からの眺めを描いたものだろうと思います。
ちなみに橋からの眺めを描いた絵といえば、記事でもすこしふれた画家・丸山永畝氏による古い木造時代の富士見橋の様子を描いた絵が有名ですが、この絵とは違うようですね。
(ネットで検索したら氏の絵を載せているサイトもあるので、気になるかたは調べてみてもいいかもですね。)
写真3
こちらは記事でもふれた「成城みつ池緑地・旧山田家住宅」の外観ですね。(写真3)
なかなかの洋風住宅でした。
ただ散歩当日は閉まっていて中にははいれませんでしたけどね。
ちなみに成城に当時から住んだこの住宅を建てたような著名人の中に、知っている人は知っていると思いますが、民俗学者の柳田国男もいるんですよね。
氏はどうやら成城学園のまちづくりにも参画していたようで、実はこのまちの成り立ちとも関わりが深い人のようです。
そしてすこしばかり調べてみると、「定本柳田國男集 別巻第4」には氏が当時の富士見橋を訪れたことを記している項も残されていましたね。
以下は抜粋です。
『九月十九日 火よう 晴
清彦と富士見橋まで遠征。
警戒警報出づ。午時少し前、二時過とける。
西の垣根へ梅・椿を栽ゑて見る、草をとる。
放送局より電話、朗讀資料をくれといふこと。
三千子ちよつと來る。
英彦母子とまりに來る。暗くなつたので迎に出てやる。けふは市中燈火管制の練習なり。』
なるほどなるほど。
ということで今回はこんな感じです。
なお今回は珍しく坂道ではなく、橋を取り上げてみたわけですけど、やはりここは富士山が見える橋ということで、富士山つながりの場所として記事にしてみたところが大きいですかね。
あとは今回調べた感じでは、ここは地域でも有名な富士山見物スポットであり、そこがたまたま展望台などではなく橋だったという感じも見受けられて地形話の延長としても捉えられるのではないかと思ったこともあります。
ただまあ、今後坂道ネタがつきれば(しばらくはなさそうですが)違う展開になるかもしれないですが。(笑)
そんなわけで、ここからはいつものおまけ写真でも。
写真1
富士見坂橋に設置されていた「関東の富士百景」の案内板ですね。(写真1)
ここが富士見スポットという意味で置かれていて、たまたま見えるポイントが橋だったという感じともとれそうですかね。
ちなみにこれと同じ内容のプレートが不動橋のほうにも設置されていました。
写真2
こちらは富士見橋のほうに設置されている額縁のように富士山と界隈の風景を切り取って見られる眺望スペースにあったものです。(写真2)
記事のほうでは小さくて見にくかったので、ここにて拡大してみました。
ここは世田谷百景の場所でもあるんですね。
おそらく描かれている絵は浮世絵風に現在の橋からの眺めを描いたものだろうと思います。
ちなみに橋からの眺めを描いた絵といえば、記事でもすこしふれた画家・丸山永畝氏による古い木造時代の富士見橋の様子を描いた絵が有名ですが、この絵とは違うようですね。
(ネットで検索したら氏の絵を載せているサイトもあるので、気になるかたは調べてみてもいいかもですね。)
写真3
こちらは記事でもふれた「成城みつ池緑地・旧山田家住宅」の外観ですね。(写真3)
なかなかの洋風住宅でした。
ただ散歩当日は閉まっていて中にははいれませんでしたけどね。
ちなみに成城に当時から住んだこの住宅を建てたような著名人の中に、知っている人は知っていると思いますが、民俗学者の柳田国男もいるんですよね。
氏はどうやら成城学園のまちづくりにも参画していたようで、実はこのまちの成り立ちとも関わりが深い人のようです。
そしてすこしばかり調べてみると、「定本柳田國男集 別巻第4」には氏が当時の富士見橋を訪れたことを記している項も残されていましたね。
以下は抜粋です。
『九月十九日 火よう 晴
清彦と富士見橋まで遠征。
警戒警報出づ。午時少し前、二時過とける。
西の垣根へ梅・椿を栽ゑて見る、草をとる。
放送局より電話、朗讀資料をくれといふこと。
三千子ちよつと來る。
英彦母子とまりに來る。暗くなつたので迎に出てやる。けふは市中燈火管制の練習なり。』
なるほどなるほど。
ということで今回はこんな感じです。