こちらもLINEトラベルjpの記事「虎ノ門駅すぐ!三年坂の坂上にあった大久保利通邸と界隈坂道めぐり」で取り上げた坂道ですが、やはり茱叟坂[ぐみざか](NO.311)と同様に初登場ということで、すこしばかり触れておきたいと思います。
読み方は、さんねん坂といいます。
場所については、LINEトラベルjpの記事にも書いてますけど、坂道に隣接して財務省や文部科学省が隣接しているまさに政治の中心地に位置している坂道ですね。
ただ、そんな立地なこともあり実はこれまでこのブログでもなんとなく気がすすまないところがあって積極的には取り上げてこなかったのですが、昨年の大河ドラマの西郷どんの解説で三年坂がでてきたこともあり、それならばということで、(すこしビジネスらいくな気分で(笑))LINEトラベルjpの記事で取り上げてみたという感じですかね。
写真1
ではまず坂上あたりから坂下方向を見てみた風景など。(写真1)
さすがに官庁街ということもあり、整然としつつもどこか古めかしい雰囲気も漂う坂道でしたね。
ただ江戸時代の古地図で確認してみると、昔は、場所こそほぼ同じですが、途中がS字カーブだったり坂上の方はくねくねしていたりと、現在の姿とはだいぶ変わっているようでしたね。
写真2
写真1の背後のほうを見てみると、なんとこちらも下っていました。(写真2)
やはり正面に見えている江戸時代にはなかった道+高速道路をつくるために、地形的に削られた可能性もありますね。(もしくは高低差自体は変わっていない可能性も。)
ちなみに、正面の道路の奥が、LINEトラベルjpの記事でもテーマにした大久保利通邸があった可能性がきわめて高い場所ですね。
今回の三年坂との関係については、これまでも個人のウェブサイトで場所を推測している記事などはありましたが、さすがに特定している坂道マニアの人はなかったのですが、なんと西郷どんの解説で、その位置関係がわかるというラッキーなことにでくわしたわけなのですね。
なので、このことや古地図などからも、現在の地図でいえば、今の内閣府のあるあたりで四方道路に囲まれた部分がかつての大久保利通邸だった可能性が高いですね。
ただまあこれは、マニア以外の人からすると「それで?」と言われそうなところでもあるんですけど、坂道視点で観察すると、なんといっても他の坂道を研究する際のヒントにもなりますし、ある人にとって歴史の聖地探訪のきっかけにもなり、自分としてもただその土地の歴史を掘り下げていくというよりは坂道を通したほうが物語的で楽しいので、やっているという感じですかね。(他にもいろいろあるかもしれませんが今思いつくのはこんなところです。)
写真3
写真1の場所からすこし坂を下って坂上方向を見たものです。(写真3)
現地では気が付かず撮っていたので、LINEトラベルjpの記事を書いているときもスルーしてしまったのですが、なんとここからもちらりと国会議事堂が見えていたんですね。
このブログの記事を書こうと思って写真を見直していたらびっくりと言った感じでした。(笑)
写真4
さらに坂を下り、坂の碑が見えるポイントで、坂下方向を見てみました。(写真4)
ここからだと高低差具合もわかりやすいですね。
ちなみに坂名の由来についてはLINEトラベルjpの記事に書いた通りですが、せっかくなので現地の坂の碑にかかれていたことものせておきます。
『潮見坂の南にあり、裏霞が関と三年町の間を通っています。別名を淡路坂、陶山(すやま)が関とも言います。かつては坂上の道路が湾曲していたことにちなみ栄螺尻坂、または周辺に鶯が多かったことから鶯谷という別名もありました。』
とのこと。
この文、これまでの坂道マニアの方のサイト情報を見ても、内容がかなり違っているので、どうやら最近リニューアルしたみたいですね。
写真5
あとは文部科学省のはいっているビルが、高層棟は現代的で、下層部は昔の形を残している形式で建てられていたのは興味深かかったですね。(写真5)
ウィキペディアには霞が関コモンゲートとして記録されていますね。
設計は久米設計、大成建設、新日本製鐵とのこと。
なるほどなるほど。
写真6
最後は坂下あたりより。(写真6)
やはりこのビルの低層部のデザインのおかげでなにやら独特の雰囲気になっているような気がしました。
ということで、今回はこんな感じです。
地図
千代田区霞が関3
読み方は、さんねん坂といいます。
場所については、LINEトラベルjpの記事にも書いてますけど、坂道に隣接して財務省や文部科学省が隣接しているまさに政治の中心地に位置している坂道ですね。
ただ、そんな立地なこともあり実はこれまでこのブログでもなんとなく気がすすまないところがあって積極的には取り上げてこなかったのですが、昨年の大河ドラマの西郷どんの解説で三年坂がでてきたこともあり、それならばということで、(すこしビジネスらいくな気分で(笑))LINEトラベルjpの記事で取り上げてみたという感じですかね。
写真1
ではまず坂上あたりから坂下方向を見てみた風景など。(写真1)
さすがに官庁街ということもあり、整然としつつもどこか古めかしい雰囲気も漂う坂道でしたね。
ただ江戸時代の古地図で確認してみると、昔は、場所こそほぼ同じですが、途中がS字カーブだったり坂上の方はくねくねしていたりと、現在の姿とはだいぶ変わっているようでしたね。
写真2
写真1の背後のほうを見てみると、なんとこちらも下っていました。(写真2)
やはり正面に見えている江戸時代にはなかった道+高速道路をつくるために、地形的に削られた可能性もありますね。(もしくは高低差自体は変わっていない可能性も。)
ちなみに、正面の道路の奥が、LINEトラベルjpの記事でもテーマにした大久保利通邸があった可能性がきわめて高い場所ですね。
今回の三年坂との関係については、これまでも個人のウェブサイトで場所を推測している記事などはありましたが、さすがに特定している坂道マニアの人はなかったのですが、なんと西郷どんの解説で、その位置関係がわかるというラッキーなことにでくわしたわけなのですね。
なので、このことや古地図などからも、現在の地図でいえば、今の内閣府のあるあたりで四方道路に囲まれた部分がかつての大久保利通邸だった可能性が高いですね。
ただまあこれは、マニア以外の人からすると「それで?」と言われそうなところでもあるんですけど、坂道視点で観察すると、なんといっても他の坂道を研究する際のヒントにもなりますし、ある人にとって歴史の聖地探訪のきっかけにもなり、自分としてもただその土地の歴史を掘り下げていくというよりは坂道を通したほうが物語的で楽しいので、やっているという感じですかね。(他にもいろいろあるかもしれませんが今思いつくのはこんなところです。)
写真3
写真1の場所からすこし坂を下って坂上方向を見たものです。(写真3)
現地では気が付かず撮っていたので、LINEトラベルjpの記事を書いているときもスルーしてしまったのですが、なんとここからもちらりと国会議事堂が見えていたんですね。
このブログの記事を書こうと思って写真を見直していたらびっくりと言った感じでした。(笑)
写真4
さらに坂を下り、坂の碑が見えるポイントで、坂下方向を見てみました。(写真4)
ここからだと高低差具合もわかりやすいですね。
ちなみに坂名の由来についてはLINEトラベルjpの記事に書いた通りですが、せっかくなので現地の坂の碑にかかれていたことものせておきます。
『潮見坂の南にあり、裏霞が関と三年町の間を通っています。別名を淡路坂、陶山(すやま)が関とも言います。かつては坂上の道路が湾曲していたことにちなみ栄螺尻坂、または周辺に鶯が多かったことから鶯谷という別名もありました。』
とのこと。
この文、これまでの坂道マニアの方のサイト情報を見ても、内容がかなり違っているので、どうやら最近リニューアルしたみたいですね。
写真5
あとは文部科学省のはいっているビルが、高層棟は現代的で、下層部は昔の形を残している形式で建てられていたのは興味深かかったですね。(写真5)
ウィキペディアには霞が関コモンゲートとして記録されていますね。
設計は久米設計、大成建設、新日本製鐵とのこと。
なるほどなるほど。
写真6
最後は坂下あたりより。(写真6)
やはりこのビルの低層部のデザインのおかげでなにやら独特の雰囲気になっているような気がしました。
ということで、今回はこんな感じです。
地図
千代田区霞が関3