NO. 270
坂名:権之助坂
住所:東京都目黒区上大崎

ごんのすけ坂とよぶそうです。
今回の坂も目黒通りそのものが坂道で、場所は、金毘羅坂(NO.269)の坂下から東へすこし移動したところにあります。

権之助坂(NO.270)1
写真1

まずは坂下からの様子でも。(写真1)
すぐ背後には、目黒川が横切っているあたりですね。
同じ目黒通りでも、すぐ西側にある金毘羅坂(NO.269)の広い道幅に比べると普通の道幅の坂道となっていましたかね。
ただここも目黒通りということもあり、両側のビルは背が高めのため独特な坂道風景をつくっている印象でした。

権之助坂(NO.270)2
写真2

写真1のすぐ右側の景色です。(写真2)
ここは見ての通りで、橋の上からの景色でもあるとおりで、名前は目黒新橋というそうです。
そして、奥には行人坂(NO.266)の坂下のほうでも登場した目黒雅叙園のタワー部分も見えていましたよ。

権之助坂(NO.270)3
写真3

さらに坂を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真3)
ちょっときつめの勾配具合が坂下から同じように続き、ここで、目黒通りは二手に分かれていました。
右側の道が、今回の権之助坂になります。
なので、車で今回の坂道を通るなら坂上からしか行けないことになりますかね。
左側の道は、放射3号支線という別名もあるみたいですね。
あとは、左側にもアーケードがちらりと見えているとおり、この権之助坂の沿道は、権之助坂商店街と呼ばれているそうで、ちょっと懐かしい雰囲気のお店なども含めて、沿道には256店ものお店が軒を連ねているそうですよ。

権之助坂(NO.270)4
写真4

あ、そうそう。(写真4)
このすぐそば(左側)には、崖のようになっているようで、こんな風ないい感じの階段になっていました。
かなりの高低差ですねえ。
今回は、階段上からの写真しか撮っていませんが、またそのうち再訪して記録しておきたい階段かもですね。

権之助坂(NO.270)5
写真5

では、道が二手に分かれるところを右に行き、坂上方向を見てみました。(写真5)
三車線ということで、こうみると広いですねえ。
あとは、舗装が茶色になっているのも気になるところです。

権之助坂(NO.270)6
写真6

写真5とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみたものです。(写真6)
右側のほうにちらりと「権之助坂」と書かれた標識がでていますよね。
僕の知るかぎり、こんな具合に標識の形で坂名が書かれているのは、地名と連動している以外の坂道ではかなり珍しい事例だと思いますね。
ちなみに、今回の坂道には、いつものような坂の名前が書かれた坂の碑はありませんでしたが、目黒区のサイトに説明が書かれていましたので、一部抜粋させていただくとですね、
『昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。』
とありました。
まあ、これだけでは、新坂なのでは?と思う方もいると思いますので、補足事項として、さらに抜粋させていただくとですね、
『江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。
 馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。
 村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
 また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。』
とのこと。

ちなみに、タモリさんや山野勝さんの坂道本では、「許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われた」という説を強調されておりましたよ。
なお、菅沼権之助が許可なく新坂を切り開いたというのは、行人坂(NO.266)があまりにも急坂で当時のひとたちが往来時にあまりに苦労しているのを見かねて、新しい坂をすぐそばに切り開いたわけですが、その際に事前に許可なくつくってしまったからだそうですよ。
ではなぜ、許可が必要だったかというのは、(ブラタモリを継続的に見ているかたならピンとくるかもですし)、タモリさんの坂道本でも書かれていますが、ようは防衛のため主要道以外に道をつくることは当時禁止されていたためなのですよ。
なので、処刑される前に、菅沼権之助が、坂上から自分の家を望み、処刑されるのも忘れて喜んだというエピソードだけで、その坂道が権之助坂と呼ばれるようになったというのもわかりますが、やはり新しい坂道を当時つくるとなればかなりの大事業だったはずで、つくっている過程から幕府だって気がつかないわけはないと思われるわけなので、できる前から相当な圧力を受けながらの造営だったのだろうことを思うと、やはり坂道ファンとしては、地域の人のために許可なく新坂を切り開いたために、罪に問われてしまった説を有力説としてみたいところではありますかね。

権之助坂(NO.270)7
写真7

こちらは、写真5でも見えていた歩道橋からの景色です。(写真7)
ちょうど目黒通りが二手にわかれている場所がきれいに見えていたので、ぱちりと一枚。

権之助坂(NO.270)8
写真8

さらに坂を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真8)
このあたりから勾配具合もゆるくなり、両サイドもオフィスビルっぽい建物が一気に目立つようになってきました。

権之助坂(NO.270)9
写真9

そんなこんなで、坂上あたりにやってきて坂下方向を見てみました。(写真9)
勾配具合はかなり緩めですが、史実を知ってから、この景色を見ると、この勾配がまた違った風景に見えてくるんじゃないですかね。

権之助坂(NO.270)10
写真10

最後は、写真9の背後の様子でも。(写真10)
JR目黒駅前の風景が広がっていましたよ。

『昭和42年11月、ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有名店、老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集まるという期待とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。(略)、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いがする。
 坂の方も、権之助坂のわき腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下りの一方通行にされてしまったが、それでも朝夕は車の洪水をさばき切れずにあえいでいる。権之助も土の下で苦笑していることだろう。』
(目黒区のサイトより抜粋)

ということで、今回はこんな感じです。

地図:目黒区目黒1-4or品川区上大崎2-27あたり