NO. 240
坂名:御殿山の坂
住所:品川区北品川5-20あたり
大田区馬込界隈の坂道散歩からだいぶ時間が経ってしまいましたが、このまえやっと品川駅界隈の坂道をいくつかまわることができましたので、今回からはそのあたりの坂道を取り上げてみたいと思います。
(というわけで。)
ごてんやまの坂と呼ぶそうです。
場所は、品川駅からはすこし遠いので、大崎駅の東側にあると言ったほうがいいと思いますが、そこに御殿山と呼ばれる高台があるのですが、そこを上り下りするためにつくられたであろう坂道に御殿山の坂という名がつけられています。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。
なんとなく右側の建物(これ、上に電車でも走ってそうな感じですが、違うんですよ)のせいかすこしごちゃごちゃしているように見えますが、それでも現地では坂道のまわりの雰囲気は落ち着いた感じでした。
またこの坂道はいつ頃から「御殿山の坂」と呼ばれたのかは不明ですが、坂の途中には、区が設置した坂の案内板があり、さっそく抜粋しちゃいますが、
『このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何回かの修理でゆるやかになった。』
とのこと。
とりあえず、そのままという感じなのですかね。
ちなみに坂の名にもでてくる御殿山、こちらも坂の途中に案内板があったので、せっかくなのでこちらも抜粋しておきますとですね、
『御殿山は、長録年間に大田道灌の館があったと伝えられています。また江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢滝和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、亨保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が堀崩され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼き討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地縁辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。』
ということでした。
いろいろな歴史もあっておもしろそうな山(でいいのかな?)みたいですね。
写真2
また左側をみると、川の向こうにゲートシティ大崎のビル群が見えていました。
写真3
そして、坂をすこし上ってみました。
このあたりで坂はぐぐんとカーブしていました。
またこの位置からだと左側の例のものが建物だということもわかりやすいかもですね。
写真4
さらに坂道を上り、今度は坂上のほうを見てみました。
このあたりから坂道は直線になり、街路樹がとても印象的なアクセントになっているようでした。
写真5
こちらは写真4の位置よりすこし坂を上った場所のものです。
このあたりまでくると坂の頂上もちらりちらりと見え出してきていました。
また坂の舗装も例のドーナツリング型の舗装にふさわしく、歩いていてもけっこうな急勾配具合でした。
写真6
そして、しばらくとことこと歩くと、坂の頂上あたりにやってきました。
このあたりまでくるとまわりは閑静な住宅街といった感じでした。
写真7
最後は、坂上からの景色など。
ただここからだと、街路樹が元気良すぎて、さらに坂下にある背の高い会社ビルなどのおかげで、景色は見てのとおりで、坂下からはけっこうな高低差具合のはずなのですがひらけていませんでした。
でも江戸時代の頃にもこの道があったならば、今よりはもっと景色がひらけてて海も遠くに見えただろうなということは想像できる場所だったかもです。
地図:品川区北品川5-20あたり
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坂名:御殿山の坂
住所:品川区北品川5-20あたり
大田区馬込界隈の坂道散歩からだいぶ時間が経ってしまいましたが、このまえやっと品川駅界隈の坂道をいくつかまわることができましたので、今回からはそのあたりの坂道を取り上げてみたいと思います。
(というわけで。)
ごてんやまの坂と呼ぶそうです。
場所は、品川駅からはすこし遠いので、大崎駅の東側にあると言ったほうがいいと思いますが、そこに御殿山と呼ばれる高台があるのですが、そこを上り下りするためにつくられたであろう坂道に御殿山の坂という名がつけられています。
写真1
まずは坂下あたりの様子など。
なんとなく右側の建物(これ、上に電車でも走ってそうな感じですが、違うんですよ)のせいかすこしごちゃごちゃしているように見えますが、それでも現地では坂道のまわりの雰囲気は落ち着いた感じでした。
またこの坂道はいつ頃から「御殿山の坂」と呼ばれたのかは不明ですが、坂の途中には、区が設置した坂の案内板があり、さっそく抜粋しちゃいますが、
『このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何回かの修理でゆるやかになった。』
とのこと。
とりあえず、そのままという感じなのですかね。
ちなみに坂の名にもでてくる御殿山、こちらも坂の途中に案内板があったので、せっかくなのでこちらも抜粋しておきますとですね、
『御殿山は、長録年間に大田道灌の館があったと伝えられています。また江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢滝和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、亨保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が堀崩され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼き討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地縁辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。』
ということでした。
いろいろな歴史もあっておもしろそうな山(でいいのかな?)みたいですね。
写真2
また左側をみると、川の向こうにゲートシティ大崎のビル群が見えていました。
写真3
そして、坂をすこし上ってみました。
このあたりで坂はぐぐんとカーブしていました。
またこの位置からだと左側の例のものが建物だということもわかりやすいかもですね。
写真4
さらに坂道を上り、今度は坂上のほうを見てみました。
このあたりから坂道は直線になり、街路樹がとても印象的なアクセントになっているようでした。
写真5
こちらは写真4の位置よりすこし坂を上った場所のものです。
このあたりまでくると坂の頂上もちらりちらりと見え出してきていました。
また坂の舗装も例のドーナツリング型の舗装にふさわしく、歩いていてもけっこうな急勾配具合でした。
写真6
そして、しばらくとことこと歩くと、坂の頂上あたりにやってきました。
このあたりまでくるとまわりは閑静な住宅街といった感じでした。
写真7
最後は、坂上からの景色など。
ただここからだと、街路樹が元気良すぎて、さらに坂下にある背の高い会社ビルなどのおかげで、景色は見てのとおりで、坂下からはけっこうな高低差具合のはずなのですがひらけていませんでした。
でも江戸時代の頃にもこの道があったならば、今よりはもっと景色がひらけてて海も遠くに見えただろうなということは想像できる場所だったかもです。
地図:品川区北品川5-20あたり
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