けっこう前になってしまったんですが、目黒区にある上目黒氷川神社にふらりと立ち寄った時に、いい階段があったのでちょっと取り上げてみたいと思います。
場所は、目黒区とはいってもいろいろあるわけですが、細かい場所は田園都市線の池尻大橋駅の近くにあり、最近話題にもなった大橋ジャンクションの目の前にある神社で、今回はそこの階段でのことです。

写真1
いろいろ説明していてもあれですので、まずは坂下からの様子でも。(写真1)
とにかくここの階段、急勾配でしたよ。
ただここは別に“上目黒氷川神社男坂”とかそういう名前が他の神社のようについているわけではなく、いわゆる無名坂の部類に入るものだと思います。
でも良い感じの坂というか階段ですねえ。

写真2
こちらはすこし階段をのぼり、さらに坂上のほうを見てみたものです。(写真2)
この段階でも坂上になにがあるかもわからないくらいの高低差がまだまだありました。

写真3
そして、一気に坂上までやってきて坂下方向を眺めてみました。(写真3)
目の前にみえている高速道路のおかげですこし圧迫感はありますが(そのおかげで大橋ジャンクションも見えてないんですが)、かなり印象的な坂上からの眺めだったかもです。
高低差も遠くに見えている建物と比べてみると4階分くらいはありそうですかね。

写真4
ちなみに坂の全景が見れる場所があったので、いちおう撮っておきました。(写真4)
なんかもう、こうしてみると(しつこいですけど)すごい傾斜の階段ですね。
見た感じでは45度以上ありそうにも見えるんですが、真相やいかに。
またこの階段下に、氷川神社の由来みたいなことが書かれた案内板があったのですが、そこにけっこう面白いことが書かれていてですね、
『正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。』
ということなんだそうです。
なので写真3でいえば、坂下の大通りが玉川通りなのですが、どうやらこの階段、道路の拡幅工事が行われる前はもっとゆるやかな勾配の階段だったみたいですね。
そして、同じく案内板の最後には『境内には、目切坂上(現、上目黒1−8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。』とも書かれていたんですよ。
(これはわくわくドキドキ。)

写真5
そんなわけで、階段を登りきると、正面にこんな感じで本殿が見えていました。(写真5)

写真6
そしてそして、その本殿の左側にかなり気になるお堂がありました。(写真6)
見てのとおりなのですが、「目黒富士浅間神社」という木碑があり、そのそばには案内看板もありました。
せっかくなのでそのまま抜粋するとですね、
『目黒富士 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので、「元富士」と呼び、後に別所坂上に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。』
とのこと。
とにかく、前に歩いた代官山駅近くにある目切坂(NO.154)とこの神社はどうやら昔から富士山(富士塚)つながりの場所だったみたいですね。(ちなみに別所坂はまだです・・・。)
ということで、富士塚と坂道の関係についても、もうすこし話を切り込んでいきたいところなのですが、またそのうち、目黒区内の他の坂道話の時に必ずでてくるであろう「元富士」と「新富士」の話をするときに、ちょっとずつ歴史を紐解いていければなあということで、今回はとりあえずこんな感じです。
地図
目黒区大橋2-16
場所は、目黒区とはいってもいろいろあるわけですが、細かい場所は田園都市線の池尻大橋駅の近くにあり、最近話題にもなった大橋ジャンクションの目の前にある神社で、今回はそこの階段でのことです。

写真1
いろいろ説明していてもあれですので、まずは坂下からの様子でも。(写真1)
とにかくここの階段、急勾配でしたよ。
ただここは別に“上目黒氷川神社男坂”とかそういう名前が他の神社のようについているわけではなく、いわゆる無名坂の部類に入るものだと思います。
でも良い感じの坂というか階段ですねえ。

写真2
こちらはすこし階段をのぼり、さらに坂上のほうを見てみたものです。(写真2)
この段階でも坂上になにがあるかもわからないくらいの高低差がまだまだありました。

写真3
そして、一気に坂上までやってきて坂下方向を眺めてみました。(写真3)
目の前にみえている高速道路のおかげですこし圧迫感はありますが(そのおかげで大橋ジャンクションも見えてないんですが)、かなり印象的な坂上からの眺めだったかもです。
高低差も遠くに見えている建物と比べてみると4階分くらいはありそうですかね。

写真4
ちなみに坂の全景が見れる場所があったので、いちおう撮っておきました。(写真4)
なんかもう、こうしてみると(しつこいですけど)すごい傾斜の階段ですね。
見た感じでは45度以上ありそうにも見えるんですが、真相やいかに。
またこの階段下に、氷川神社の由来みたいなことが書かれた案内板があったのですが、そこにけっこう面白いことが書かれていてですね、
『正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。』
ということなんだそうです。
なので写真3でいえば、坂下の大通りが玉川通りなのですが、どうやらこの階段、道路の拡幅工事が行われる前はもっとゆるやかな勾配の階段だったみたいですね。
そして、同じく案内板の最後には『境内には、目切坂上(現、上目黒1−8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。』とも書かれていたんですよ。
(これはわくわくドキドキ。)

写真5
そんなわけで、階段を登りきると、正面にこんな感じで本殿が見えていました。(写真5)

写真6
そしてそして、その本殿の左側にかなり気になるお堂がありました。(写真6)
見てのとおりなのですが、「目黒富士浅間神社」という木碑があり、そのそばには案内看板もありました。
せっかくなのでそのまま抜粋するとですね、
『目黒富士 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので、「元富士」と呼び、後に別所坂上に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。』
とのこと。
とにかく、前に歩いた代官山駅近くにある目切坂(NO.154)とこの神社はどうやら昔から富士山(富士塚)つながりの場所だったみたいですね。(ちなみに別所坂はまだです・・・。)
ということで、富士塚と坂道の関係についても、もうすこし話を切り込んでいきたいところなのですが、またそのうち、目黒区内の他の坂道話の時に必ずでてくるであろう「元富士」と「新富士」の話をするときに、ちょっとずつ歴史を紐解いていければなあということで、今回はとりあえずこんな感じです。
地図
目黒区大橋2-16
コメント一覧 (1)