最近、また九段坂についての気になる史実が書かれた本を見つけたので、今回はちょっとその話でも。
いきなりですが、こちらは『色刷り明治東京名所絵・井上安治画』という本にあった九段坂の名所絵です。(ただしデジカメで、風景を撮る感じでぱちりと絵を撮ってみたものを加工したものですので、絵が一部歪んでますのであしからず。)
で、この名所絵ですが、参考本のタイトルにもあるとおり井上安治なる絵師によるものだそうですよ。
(前に、「九段坂・今昔メモ」という記事で登場した明治時代の九段坂の写真と見比べてみてもおもしろいかもですね。)
ただこの上の絵を見る限りでは、常燈明台も今の位置になる前の坂の北側(靖国神社側)にあり、ほんとうに坂の上の頂上からのもののようで、見た感じかなりの丘の上の風景といった感じが誇張しているのかなあとすこし思ったわけなんです。
でも、実はそうでもなさそうなんですよ。
そこでまずは絵の解説文として本に書かれてあった一文をすこし抜粋してみますね。
『戦前には、陸軍将校クラブであった偕行社があり、構内に常燈明台が建っていた。(略)。明治三年招魂社として創建された靖国神社のために献燈として明治四年(一八七一)建てられたという。標高二五メートルという東京の最高所だから品川沖を航行する船の唯一の目標になるというので評判になったのも無理はない。』
ふーん。そうなんですね。
そして、抜粋分ではちょっとした常燈明台の史実とともに“標高二五メートルという東京の最高所”なる一文があるんですよ。
要は標高25メートルといえば、あの都内の自然の山としては最高峰の標高でもある港区にある愛宕山でも(だいたいの標高が測れる地図サイト)マピオンによれば海抜25m(ウィキペディアでは標高25.3m)ということなので、江戸から明治時代のころであれば、ここから海方面にかけては愛宕山に負けないくらいの高低差があり、かなりの高所だったということになりそうなんですよ。
いちおう愛宕山と同様にマピオンで九段坂の海抜を計ってみると坂上のほうはたしかに海抜25mという表示がでてきました。
そんなわけもあり、前にみちくさ学会の九段坂の記事でもこの坂は潮見坂であると予測はしてみたものの、あんな立派な常燈明台が九段坂の坂上あたりにありきちんと本来の役割もはたしていたというのは現在の景色をみると想像しにくいこともあり、やっぱり気になるなーと不思議に思っていたんですけど、この史実やデータをみるとやっぱりそうだったんだなあーとちょっと納得してしまいました。
ちなみに現在の常燈明台はこんな感じです。
位置は坂の南(日本武道館側)に移動していますけど、上の絵と見比べてみてもそれほどつくりというかデザインの違いが感じられないので、今の常燈明台はほぼ昔と変わらない形で残っているのかもしれないですね。
あと、この他にも、参考本には、
『この常明燈は、漱石の「三四郎」のなかでは、広田先生に「時代錯誤」と批評されている。ヨーロッパ留学で、本場の建築になじんできた漱石としてはもっともな意見ではあっても、いまの時点で明治初年の混乱期のモニュメントとしてみえれば珍重に値する。』
という一文もあり、ちょっと気になったので小説「三四郎」の本文ではどこの部分なんだろうと思い調べてみたらありましたよ♪♪
『「時代錯誤(アナクロニズム)だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」
「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」
広田先生は笑い出した。じつは東京名所という錦絵の間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、偕行社という新式の煉瓦作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。』
(以上は青空文庫からの引用です。)
なんとも路上観察学的な会話というかタモリ倶楽部でぱらりとでてきそうな会話のやりとりというか。。(笑)
なんかいい感じですね。
地図:千代田区九段北1あたり
関連リンク:
いきなりですが、こちらは『色刷り明治東京名所絵・井上安治画』という本にあった九段坂の名所絵です。(ただしデジカメで、風景を撮る感じでぱちりと絵を撮ってみたものを加工したものですので、絵が一部歪んでますのであしからず。)
で、この名所絵ですが、参考本のタイトルにもあるとおり井上安治なる絵師によるものだそうですよ。
(前に、「九段坂・今昔メモ」という記事で登場した明治時代の九段坂の写真と見比べてみてもおもしろいかもですね。)
ただこの上の絵を見る限りでは、常燈明台も今の位置になる前の坂の北側(靖国神社側)にあり、ほんとうに坂の上の頂上からのもののようで、見た感じかなりの丘の上の風景といった感じが誇張しているのかなあとすこし思ったわけなんです。
でも、実はそうでもなさそうなんですよ。
そこでまずは絵の解説文として本に書かれてあった一文をすこし抜粋してみますね。
『戦前には、陸軍将校クラブであった偕行社があり、構内に常燈明台が建っていた。(略)。明治三年招魂社として創建された靖国神社のために献燈として明治四年(一八七一)建てられたという。標高二五メートルという東京の最高所だから品川沖を航行する船の唯一の目標になるというので評判になったのも無理はない。』
ふーん。そうなんですね。
そして、抜粋分ではちょっとした常燈明台の史実とともに“標高二五メートルという東京の最高所”なる一文があるんですよ。
要は標高25メートルといえば、あの都内の自然の山としては最高峰の標高でもある港区にある愛宕山でも(だいたいの標高が測れる地図サイト)マピオンによれば海抜25m(ウィキペディアでは標高25.3m)ということなので、江戸から明治時代のころであれば、ここから海方面にかけては愛宕山に負けないくらいの高低差があり、かなりの高所だったということになりそうなんですよ。
いちおう愛宕山と同様にマピオンで九段坂の海抜を計ってみると坂上のほうはたしかに海抜25mという表示がでてきました。
そんなわけもあり、前にみちくさ学会の九段坂の記事でもこの坂は潮見坂であると予測はしてみたものの、あんな立派な常燈明台が九段坂の坂上あたりにありきちんと本来の役割もはたしていたというのは現在の景色をみると想像しにくいこともあり、やっぱり気になるなーと不思議に思っていたんですけど、この史実やデータをみるとやっぱりそうだったんだなあーとちょっと納得してしまいました。
ちなみに現在の常燈明台はこんな感じです。
位置は坂の南(日本武道館側)に移動していますけど、上の絵と見比べてみてもそれほどつくりというかデザインの違いが感じられないので、今の常燈明台はほぼ昔と変わらない形で残っているのかもしれないですね。
あと、この他にも、参考本には、
『この常明燈は、漱石の「三四郎」のなかでは、広田先生に「時代錯誤」と批評されている。ヨーロッパ留学で、本場の建築になじんできた漱石としてはもっともな意見ではあっても、いまの時点で明治初年の混乱期のモニュメントとしてみえれば珍重に値する。』
という一文もあり、ちょっと気になったので小説「三四郎」の本文ではどこの部分なんだろうと思い調べてみたらありましたよ♪♪
『「時代錯誤(アナクロニズム)だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」
「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」
広田先生は笑い出した。じつは東京名所という錦絵の間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、偕行社という新式の煉瓦作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。』
(以上は青空文庫からの引用です。)
なんとも路上観察学的な会話というかタモリ倶楽部でぱらりとでてきそうな会話のやりとりというか。。(笑)
なんかいい感じですね。
地図:千代田区九段北1あたり
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あと、地図もあらたにリンクしました。