所在地:大田区南馬込4-46あたり
うすだ坂と呼ぶそうです。
場所は前にとりあげた汐見坂(NO.223)の坂下から西へ徒歩数分の場所に龍子記念館なる施設があるのですが、今回の坂はそこから東へ徒歩2,3分のところにある坂道です。

写真1
まずは、坂上あたりの様子です。(写真1)
閑静な住宅街にある坂道で、このあたりはそれほど勾配はなくなだらかな傾斜道でした。
ただ坂道自体はけっこう長めのつくりなので、坂下のほうまでは見えていませんでした。

写真2
また写真1の左側をみるとちいさな稲荷らしきものがありました。(写真2)
ただこの場所については現地でもメモしていなくて写真だけ撮っただけなので詳しいことはわかりませんが、どうやら、いつもお世話になっている江戸東京坂道事典によれば、この稲荷の敷地内かこの写真の左側のほうに磨墨塚なるけっこう有名な塚があるらしいですよ。
詳しくはウィキペディアにも説明ありましたので、気になるかたいればそちらのほうをどうぞ。
→ 磨墨塚
あと写真2でも見えているのですが、ここにもいつもように坂の碑があり、『坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起つたといわれている。』と書かれてありました。
これ以外に、大田区の公式HPにも坂の説明があり、実はこちらのほうがかなり詳しく坂の由来などが書かれていたので、こちらのほうも抜粋するとですね、
『大田文化の森前から北西に曲って荏原町へ抜けるバス通りの坂道です。昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂が主な道でした。このバス通りを昔は田無街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無へ通じる街道でした。明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無線と呼ばれています。臼田坂の坂名については、坂のあたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起ったといわれています。また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。』
と、ありました。
そうなんですよ。
現地歩いている時は、すっかり忘れていたんですけど、このあたりはかつて「馬込文士村」と呼ばれていた地域で、説明にもあるとおり萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住んでいたそうですよ。
しかもこの坂が文士村のメインストリートだったんですね。
そして、説明には「萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。」なんてことも書かれているので、ちょっと調べてみたんですが、ありましたよ!
かの有名な青空文庫のサイトにですね。→「坂」(青空文庫のサイトです)
ただこの「坂」という作品。
坂の説明に臼田坂あたりを魅力的に描写していますとあるのですが、この散文詩を読む限りでは直接的に臼田坂とわかる表現はしていませんが、「馬込文士村」のサイトによれば、萩原朔太郎はこの坂のそばに大正15年〜昭和4年のあいだ住んでいたらしく、この散文詩は昭和2年に発表されたものらしいので、おそらくかなりの確率でこの坂を意識した風景描写がされていただろうと思われます。
なので、とりあえずぱっと読んだだけではわかりにくですが、この散文詩を何度もよめば当時の雰囲気もかなり浮かんでくるのかもしれないですね。

写真3
今度は、坂をすこし下り、坂上のほうをみたものです。(写真3)
風景自体はなんてことないのですが、実はこの写真3の中央右あたりに見えている黄土色ぽい外観のマンションの右奥あたりに、「馬込文士村」のサイトの情報によれば、かつて萩原朔太郎が住んでいた家があったそうですよ。(確認はしていませんので、もしかしたら今もあるのかもしれませんが・・・。)

写真4
そして、さらに坂を下り、今度は坂下のほうを見てみました。(写真4)
このあたりから傾斜具合もすこしあがってきているようでした。
またそれほど背の高いマンションもないためか空もひろく見えていました。
またこの坂の軸線方向も実は海方向(南東ですね)に下るかたちでむかっているので、ここも別名で潮見坂と行ってもいいのかもしれませんが、実はこの近くの汐見坂(NO.223)が東方向に向かって下っているのにもかかわらず汐見と坂名ついていますので、潮見(汐見)の指すかつての“江戸の海”の定義がほんとうにわからなくなってきているのが現状ですので、こちらもまた保留ということでお願いします。。

写真5
途中には良い感じで古くなっている階段もありました。(写真5)
実はこれ、写真4でも道路左側に見えていたりするんですよ。

写真6
さらに坂を下ると、これまた良い感じで道がすこし左にカーブしはじめていました。(写真6)
あとは、道左側に樹々と間違えそうなくらいたくさん蔦のはえた緑の家が見えていて、これまたなんともかんとも。。

写真7
いちおう写真6とだいたい同じ場所から坂上のほうも見てみました。(写真7)
風景的にはこれといったものないですけど、高低差具合はわかりやすいんじゃないですかね。

写真8
で、さらに坂を下ると、やっと坂下あたりもちらりと見えてきました。(写真8)
また、写真8の左に立派な石垣とその上に大きな松の木などが見えているあたりなのですが、どうやらこのあたりに(「馬込文士村」のサイトによると)川端康成が昭和3年から4年のあいだ、住んでいたらしいですよ。

写真9
さらに坂を下り、坂上のほうを眺めてみました。
道もゆるやかにカーブしていて、このあたりは勾配具合もけっこうあったのでなかなか良い感じで坂道風景ひろがっていたかもです。

写真10
最後は坂下あたりの様子です。(写真10)
このあたりまでくると道も平坦になっていました。
また、写真10の左側あたりに、(これまた「馬込文士村」のサイトによると)石坂洋次郎が大正13年から14年のあいだ住んでいたとのことですよ。
というわけで、散歩当日、ここがかつての文士村のメインストリートであったことを知っていればもうすこしつぶさに調査したんですが、いかんせん今回はこんな具合です。
(なので、そのうちこの史実もあわせてまた調べに行ってみたいと思っている今日この頃ですなり。。)
地図
大田区南馬込4-46あたり
うすだ坂と呼ぶそうです。
場所は前にとりあげた汐見坂(NO.223)の坂下から西へ徒歩数分の場所に龍子記念館なる施設があるのですが、今回の坂はそこから東へ徒歩2,3分のところにある坂道です。

写真1
まずは、坂上あたりの様子です。(写真1)
閑静な住宅街にある坂道で、このあたりはそれほど勾配はなくなだらかな傾斜道でした。
ただ坂道自体はけっこう長めのつくりなので、坂下のほうまでは見えていませんでした。

写真2
また写真1の左側をみるとちいさな稲荷らしきものがありました。(写真2)
ただこの場所については現地でもメモしていなくて写真だけ撮っただけなので詳しいことはわかりませんが、どうやら、いつもお世話になっている江戸東京坂道事典によれば、この稲荷の敷地内かこの写真の左側のほうに磨墨塚なるけっこう有名な塚があるらしいですよ。
詳しくはウィキペディアにも説明ありましたので、気になるかたいればそちらのほうをどうぞ。
→ 磨墨塚
あと写真2でも見えているのですが、ここにもいつもように坂の碑があり、『坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起つたといわれている。』と書かれてありました。
これ以外に、大田区の公式HPにも坂の説明があり、実はこちらのほうがかなり詳しく坂の由来などが書かれていたので、こちらのほうも抜粋するとですね、
『大田文化の森前から北西に曲って荏原町へ抜けるバス通りの坂道です。昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂が主な道でした。このバス通りを昔は田無街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無へ通じる街道でした。明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無線と呼ばれています。臼田坂の坂名については、坂のあたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起ったといわれています。また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。』
と、ありました。
そうなんですよ。
現地歩いている時は、すっかり忘れていたんですけど、このあたりはかつて「馬込文士村」と呼ばれていた地域で、説明にもあるとおり萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住んでいたそうですよ。
しかもこの坂が文士村のメインストリートだったんですね。
そして、説明には「萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。」なんてことも書かれているので、ちょっと調べてみたんですが、ありましたよ!
かの有名な青空文庫のサイトにですね。→「坂」(青空文庫のサイトです)
ただこの「坂」という作品。
坂の説明に臼田坂あたりを魅力的に描写していますとあるのですが、この散文詩を読む限りでは直接的に臼田坂とわかる表現はしていませんが、「馬込文士村」のサイトによれば、萩原朔太郎はこの坂のそばに大正15年〜昭和4年のあいだ住んでいたらしく、この散文詩は昭和2年に発表されたものらしいので、おそらくかなりの確率でこの坂を意識した風景描写がされていただろうと思われます。
なので、とりあえずぱっと読んだだけではわかりにくですが、この散文詩を何度もよめば当時の雰囲気もかなり浮かんでくるのかもしれないですね。

写真3
今度は、坂をすこし下り、坂上のほうをみたものです。(写真3)
風景自体はなんてことないのですが、実はこの写真3の中央右あたりに見えている黄土色ぽい外観のマンションの右奥あたりに、「馬込文士村」のサイトの情報によれば、かつて萩原朔太郎が住んでいた家があったそうですよ。(確認はしていませんので、もしかしたら今もあるのかもしれませんが・・・。)

写真4
そして、さらに坂を下り、今度は坂下のほうを見てみました。(写真4)
このあたりから傾斜具合もすこしあがってきているようでした。
またそれほど背の高いマンションもないためか空もひろく見えていました。
またこの坂の軸線方向も実は海方向(南東ですね)に下るかたちでむかっているので、ここも別名で潮見坂と行ってもいいのかもしれませんが、実はこの近くの汐見坂(NO.223)が東方向に向かって下っているのにもかかわらず汐見と坂名ついていますので、潮見(汐見)の指すかつての“江戸の海”の定義がほんとうにわからなくなってきているのが現状ですので、こちらもまた保留ということでお願いします。。

写真5
途中には良い感じで古くなっている階段もありました。(写真5)
実はこれ、写真4でも道路左側に見えていたりするんですよ。

写真6
さらに坂を下ると、これまた良い感じで道がすこし左にカーブしはじめていました。(写真6)
あとは、道左側に樹々と間違えそうなくらいたくさん蔦のはえた緑の家が見えていて、これまたなんともかんとも。。

写真7
いちおう写真6とだいたい同じ場所から坂上のほうも見てみました。(写真7)
風景的にはこれといったものないですけど、高低差具合はわかりやすいんじゃないですかね。

写真8
で、さらに坂を下ると、やっと坂下あたりもちらりと見えてきました。(写真8)
また、写真8の左に立派な石垣とその上に大きな松の木などが見えているあたりなのですが、どうやらこのあたりに(「馬込文士村」のサイトによると)川端康成が昭和3年から4年のあいだ、住んでいたらしいですよ。

写真9
さらに坂を下り、坂上のほうを眺めてみました。
道もゆるやかにカーブしていて、このあたりは勾配具合もけっこうあったのでなかなか良い感じで坂道風景ひろがっていたかもです。

写真10
最後は坂下あたりの様子です。(写真10)
このあたりまでくると道も平坦になっていました。
また、写真10の左側あたりに、(これまた「馬込文士村」のサイトによると)石坂洋次郎が大正13年から14年のあいだ住んでいたとのことですよ。
というわけで、散歩当日、ここがかつての文士村のメインストリートであったことを知っていればもうすこしつぶさに調査したんですが、いかんせん今回はこんな具合です。
(なので、そのうちこの史実もあわせてまた調べに行ってみたいと思っている今日この頃ですなり。。)
地図
大田区南馬込4-46あたり
コメント一覧 (1)