所在地:大田区中央5-20あたり

ほうらい坂と呼ぶそうです。
場所は前にとりあげた汐見坂(NO.223)の坂上と今回の蓬莱坂の坂上がつながっており、そこから南東のほうにくだる坂道です。

蓬莱坂(NO.224)1
写真1

まずは坂上からの風景など。
いきなりですがここの坂道風景はちょっとやばいです。(笑)
勾配具合といい、道幅といい、坂下の見え具合といい、まわりも住宅エリアで高さ制限もあるのかどうかわかりませんが、背の低い家ばかりで景色も適度にひらけていていい感じでしたよ。

あと前はこのすぐそばに坂の碑があったみたいですが(大田区の公式HPに写真ありましたので)、今回散歩した時はそういうのは見当たらなかったです。
で、せっかく話にでてきたので、HPにあった坂の説明を抜粋するとですね、
『中央五丁目20番と23番の間を東南に下る長い坂。付近は閑静な住宅地です。坂名の由来は、坂近く、中央五丁目4番2号にある稲荷社にちなむといわれています。江戸時代、三代将軍家光のころ、稲荷社の境内で珍しい黒い鶴が捕らえられ、これを将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたと伝えられています。蓬莱とはその吉兆を象徴した名であり、そこから現在の坂名がつけられられたようです。また、この坂上の東方の高台には、縄文時代の横穴古墳群(桐ヶ谷横穴群といわれている)もありました。』

そして、ここにかつて坂の碑があったということは、ネットでその情報がある可能性大なので調べてみるとやっぱり複数のサイト(東京23区の坂道などなど)できちんとメモしていただいていました。
なので、それをそのまま掲載させていただくとですね、
『坂上の東北(中央五丁目四ノ二)に、通称「黒鶴稲荷」という稲荷社がある。伝説によるとその境内で捕獲された黒い鶴を、将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたという。「蓬莱」とは、縁起のよいことに使われる意味もあり、坂名はその黒鶴伝説に因みつけられたのであろう。』
と書かれていたそうですよ。

ちなみに、坂の説明ででてくる「黒鶴稲荷」という稲荷社は、たしかに今でも坂上の北東側にあります。
ただこの稲荷、こまかいこと言うと、実は汐見坂(NO.223)のほうが稲荷との距離が近く、坂のすぐ北隣にあるんですよ。(汗)

ということは、坂の説明から考えようによっては、現在の汐見坂(NO.223)のほうが黒鶴稲荷に近く、というか隣にあるのであちらが「蓬莱坂」で、実はこのエントリーの坂(ややこしい・・)が「汐見坂」だったという可能性もあるのですよ。
というのも、この坂、はじめに書きましたが、南東にむかって下る坂ということなので、地図で確認してみると、実は海からも近く、この坂の軸線も海のほうむいているんですよ。なので、この地形具合からすると坂上から昔は坂下の風景とともに海見えたかもというのが僕の推測です。
(ただこう話を広げといてなんですが、江戸の海というのがどういう定義(どのあたりの海のことなのかですね)なのかというところが実はまだあいまいな感じなので、これもまたそのうちの宿題ということで・・・。自己完結、笑)

蓬莱坂(NO.224)2
写真2

で、お次は坂をすこし下り、坂上のほうを眺めたものです。
閑静な住宅街ぽいエリアみたいで、道の風景というか街並みもけっこう落ち着いた感じでした。

蓬莱坂(NO.224)3
写真3

さらに坂を下り、坂の中腹あたりから坂下のほうを眺めてみました。
いやー、こんだけ家々の屋根がみっちり見える坂の風景というのも珍しいかもですよ。
たいていは写真右側のように家が坂と同じレベルに建っているので、奥は見えないのですが、ここは坂のむこうが崖かなんかになっていて一段低くなっているのか、隣接する家の屋根まで見えてましたよ。

蓬莱坂(NO.224)4
写真4

そして、最後は坂下からです。
いやはや、緑は少なめですが、やっぱり坂の高低差具合と距離や道幅、そして周りの家々の高さなどの比率みたいなものがいい感じかもですよ。(根拠はなんもないですけどね。)

ちなみにこのすぐそばにもかつては坂の碑があったようですが、今回は見当たりませんでした。
工事してそのまま忘れちゃったんですかね。。

地図
大田区中央5-20あたり