所在地:台東区根岸2あたり
おいんでん坂(もしくはごいんでん坂)とよぶそうで、御院殿坂とも書くそうです。
場所は、前回の寛永寺坂(NO.201)のもうすこし北側にある谷中霊園の中に坂上がありそこから北東に向かってくだる坂道です。

①
坂上あたりからの風景です。
左側に坂の碑もちらりとみえているとおり、ここは御隠殿坂とよばれる坂道なのですけど、なんていうかまわりはゲゲゲの鬼太郎でも近くにでてきそうな雰囲気の場所で整備もあまり行き届いていないようでした。しかも僕のすぐそばおよび背後は谷中霊園の敷地なので当たり前ですけどお墓がたくさんあって暗くなってからここを歩くにはちょっと勇気がいるかもなあという感じでした。
道は二手に分かれてますけど、普通は右側の道を通ります。そして奥には陸橋が架かっていて、その下をJRが走っています。
というわけで、ここには上記したようにいつもの坂の碑があり、
『明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。』
とありました。

②
今度は陸橋の上から坂上のほうを眺めてみました。
この橋は御隠殿橋とよばれている(現地未確認なんですけどね・・)らしいのですが、かつての御隠殿坂はこの橋の西わきを根岸へ下る坂道だったそうですよ。(@東京坂道事典)
ということは、①の写真の左側の道のほうがかっての坂道のなごりなのかもしれないですね。
また坂下あたりは根岸の里とよばれて江戸時代から風流人や文人の好んで住むところであったらしく、明治時代にあっては正岡子規が竹の里山人と号して住んでいたことでも有名だったそうですよ。(@東京坂道事典)
そしてあともうひとつ、
『そのころのことを書いた高浜虚子の私小説「柿二つ」には子規との交際を次のように寸描する。
知人の間に雑誌発行の事を通知旁々寄稿を依頼する手紙は大概彼
から出された。二人は毎日のやうに手紙を往復した。手紙で間に合は
ぬことは彼の病床で協議された。Kは三日にあげず御隠殿の坂を下り
て来た。上野の森には野分が吹いてゐた。暑さが今日の野分で一時
に退くであらうと誰もが心頼みにしてゐた。
野分して蝉の少なき朝かな
と彼は折節の即景を句にした。』
と東京坂道事典にあったのでせっかくなのでそのまま抜粋してみました。

③
最後は(たぶん)御隠殿橋とよばれている陸橋より日暮里駅方方面を眺めたものです。
おそらくかつての御隠殿坂はこのすぐ手前あたりを左から右に下っていたのかもしれないですね。
あとはとにかく目の前にひろがっているJRの線路の数が洒落になってないのがものすごく気になりましたよ。。
地図
台東区根岸2あたり
おいんでん坂(もしくはごいんでん坂)とよぶそうで、御院殿坂とも書くそうです。
場所は、前回の寛永寺坂(NO.201)のもうすこし北側にある谷中霊園の中に坂上がありそこから北東に向かってくだる坂道です。

①
坂上あたりからの風景です。
左側に坂の碑もちらりとみえているとおり、ここは御隠殿坂とよばれる坂道なのですけど、なんていうかまわりはゲゲゲの鬼太郎でも近くにでてきそうな雰囲気の場所で整備もあまり行き届いていないようでした。しかも僕のすぐそばおよび背後は谷中霊園の敷地なので当たり前ですけどお墓がたくさんあって暗くなってからここを歩くにはちょっと勇気がいるかもなあという感じでした。
道は二手に分かれてますけど、普通は右側の道を通ります。そして奥には陸橋が架かっていて、その下をJRが走っています。
というわけで、ここには上記したようにいつもの坂の碑があり、
『明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。』
とありました。

②
今度は陸橋の上から坂上のほうを眺めてみました。
この橋は御隠殿橋とよばれている(現地未確認なんですけどね・・)らしいのですが、かつての御隠殿坂はこの橋の西わきを根岸へ下る坂道だったそうですよ。(@東京坂道事典)
ということは、①の写真の左側の道のほうがかっての坂道のなごりなのかもしれないですね。
また坂下あたりは根岸の里とよばれて江戸時代から風流人や文人の好んで住むところであったらしく、明治時代にあっては正岡子規が竹の里山人と号して住んでいたことでも有名だったそうですよ。(@東京坂道事典)
そしてあともうひとつ、
『そのころのことを書いた高浜虚子の私小説「柿二つ」には子規との交際を次のように寸描する。
知人の間に雑誌発行の事を通知旁々寄稿を依頼する手紙は大概彼
から出された。二人は毎日のやうに手紙を往復した。手紙で間に合は
ぬことは彼の病床で協議された。Kは三日にあげず御隠殿の坂を下り
て来た。上野の森には野分が吹いてゐた。暑さが今日の野分で一時
に退くであらうと誰もが心頼みにしてゐた。
野分して蝉の少なき朝かな
と彼は折節の即景を句にした。』
と東京坂道事典にあったのでせっかくなのでそのまま抜粋してみました。

③
最後は(たぶん)御隠殿橋とよばれている陸橋より日暮里駅方方面を眺めたものです。
おそらくかつての御隠殿坂はこのすぐ手前あたりを左から右に下っていたのかもしれないですね。
あとはとにかく目の前にひろがっているJRの線路の数が洒落になってないのがものすごく気になりましたよ。。
地図
台東区根岸2あたり