所在地:台東区上野公園18あたり

しん坂とよぶそうで、別名で鴬坂や根岸坂とよばれています。
ちなみに「鴬」は「うぐいす」とよびますけど、坂の碑には「鴬谷」と書いてあり近くのJRの駅名は「鶯谷」という漢字になっていたりします。
場所は上野公園の北東にあり、坂の途中にはJRの鶯谷駅の改札口もある坂道です。

新坂(NO.200)1
写真1

坂上からの様子です。(写真1)
すぐうしろには上野公園があり、お寺も多い場所がらなこともあってかかなり落ち着いた雰囲気でした。
また坂の左側が霊園、右側が中学校というのもなんだかいろいろと考えてしまいますかね。
そんなこともあってか右側には背の高めの柵のような手摺が設けられているのに加え、霊園側にも歩道がきちんと設けられているなど、あらためて写真をみているとお年寄りと子供にやさしい坂道だなあと思ってみたり。
あとは右側(中学校側)の樹々がなかなかよい感じで道にせりだしていますかね。

新坂(NO.200)2
写真2

坂の途中からぱちりと。(写真2)
霊園のあたりはぽっかりと空がひらけていました。
どこぞやの庭園と間違いそうな感じですけど、手前の塀のむこうはお墓ですよ。。

新坂(NO.200)3
写真3

そしてもうすこし坂を下ると、鶯谷駅の改札口が見えていました。(写真3)
なんとなく懐かしい感じのたたずまいですね。
しかも駅舎の屋根が瓦。
ありそうで以外となさそうな感じかもですね。

新坂(NO.200)4
写真4

さらに坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。(写真4)
坂道はまだ続きますが、ここは見てのとおり橋の上です。
なのでこの下をJRが走っています。

新坂(NO.200)5
写真5

今度はだいたい同じ位置より坂下のほうを見てみました。(写真5)
このあたりから新坂は勾配具合がちょっと急になっていく感じでした。
ひとつ気になったのは、道路と歩道が完全に分離されているのは見ての通りですけど、その間に緑色のフェンスがつけられているんですよね。おそらく転落防止のためかとおもわれますけど、そうなれば歩道の線路側にもなにかしらついていると思えばそうでもないし・・・。
これはなんなんでしょう?

新坂(NO.200)6
写真6

最後は坂下の様子です。(写真6)
なんとなく車道の部分だけあとで増設されたっぽい感じがぷんぷんしますかね。
おかげで高低差具合がわかりやすいかもですね。
あと、この坂下一帯は、(江戸東京坂道事典によると)鶯の名所として有名だったらしくそのため鶯谷と呼ばれていたらしく、輪王寺の宮様がわざわざ京都からとりよせた鶯をこの一帯の林に放ったという伝えもあるらしいのですけど、現在は写真6のように見る影はないみたいですね。(ただ駅名としては残ってますけど。)

ちなみにこの坂道にははじめにもすこし書いたとおりいつもの坂の碑があり、
『明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鴬谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』
とありました。

あと、最後の最後にもうひとつ。(汗)
(これまた江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど。)
『坂上の徳川霊廟のあたりは根岸下谷をこえて眺望はるかにひらけていた。そして花見のころには上野全山の桜花が見わたせるというので、下谷方面からの客でこの坂道は大いににぎわい、坂上のほうには茶店が軒をつらねた時代があったというが、いまはそのおもかげはなく自動車の往復せわしないアスファルトの坂道で、そのわきに一段高く歩道が設けられている。むかしはこの坂下にあった門を新門とよんでいたが、もちろん現在はない。』

とまあ別名で鴬坂ともいい坂上には上野公園もあるので、どんな坂道なんだろう?という期待もあったんですけど、実際はいろんな要素(橋やら駅そのたもろもろですかね)がおりまざった奇妙な感じの坂道だったかもですよ。

地図
台東区上野公園18あたり