あけましておめでとうございます。
ということで今回は上野公園界隈の坂道話の続きです。
所在地:台東区上野7
くるま坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の東側あたりにあり前回の信濃坂(NO.198)などでもでてきた両大師橋と坂上でつながっている坂道です。

写真1
まずは坂上からの風景です。(写真1)
坂上からみた感じはなんてことない高低差のある車道というか坂道ですかね。
ただ歩道はあまり広くなくて、さらにここが名前のついた坂道というにはなんだかちょっと違和感があるかもですね。

写真2
そして坂の左側にはこんな風景がひろがっています。(写真2)
写真左側の橋が両大師橋で手前にひろがっているのがJRです。
なので線路の奥に見えているのが上野公園ということになりますかね。

写真3
すこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。(写真3)
やっぱりここでも坂道自体よりも両サイドの建造物と道とのかかわり具合が気になってしまいましたよ。

写真4
そしてあっというまに坂を下り、坂下あたりより坂上のほうをみたものです。(写真4)
こうしてみると距離が長いこともあってなだらかな感じに見えてますけど、坂道自体はけっこうな勾配具合がありました。
あとは手前のぐぐぐと急にカーブして下っている感じが、なんていうかこの上野界隈の雰囲気というよりは東京郊外やら神奈川のほうにありそうな雰囲気で(かなり個人的な思い込みですけどね)、ちょっとした違和感があったかもです。
それと手前の木ですかね。
坂上からの写真をみればわかりやすいですけど、なぜかポツネンと一本だけ植えられていて、しかもかなり元気よく育ってますね。
ここに昔からあったんではないかと妄想してしまうくらいの馴染み感があるかもですね。

写真5
というわけこれが最後の写真です。(写真5)
びっくりなことにこれはJRと反対側から車坂を眺めたものなのですよ。
木がじゃまして見えにくですけど、斜めに高架らしきものがあるのが見えていますよね。
よくある高架下の風景ってやつです。
どうりで坂道全体になんだか変な違和感があったというかなんというか・・・。
ただかつての車坂は予想通り今の様子とちがったらしく、江戸東京坂道事典によると、
『本来の車坂は明治一六年に上野駅が建設されるにあたってその敷地となって失われた坂で、文久の江戸図をみると、屏風坂の南にあって下谷車坂町へ下る坂道であった。車坂と車坂門との間を横貫していた道を下寺通りとよび、寛永寺の下寺がたくさん並んでいた。』
とあり、実際のところ、今の車坂は昔と別物の坂道と言ってもいいのかもしれないですよ。
そして最後の最後に(こちらも江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど)、この近くで少女期をすごした樋口一葉の明治24年の日記の抜粋や関連する歌でもどうぞ。
----
車坂下るほど、ここは父君の世にゐ給ひしころ花の折としなければいつもおのれらともなひ給ひし所よと、ゆくりなく妹のかたるをきけば、昔の春もおかげにうかぶ心地して、
山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ
地図
台東区上野7
ということで今回は上野公園界隈の坂道話の続きです。
所在地:台東区上野7
くるま坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の東側あたりにあり前回の信濃坂(NO.198)などでもでてきた両大師橋と坂上でつながっている坂道です。

写真1
まずは坂上からの風景です。(写真1)
坂上からみた感じはなんてことない高低差のある車道というか坂道ですかね。
ただ歩道はあまり広くなくて、さらにここが名前のついた坂道というにはなんだかちょっと違和感があるかもですね。

写真2
そして坂の左側にはこんな風景がひろがっています。(写真2)
写真左側の橋が両大師橋で手前にひろがっているのがJRです。
なので線路の奥に見えているのが上野公園ということになりますかね。

写真3
すこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。(写真3)
やっぱりここでも坂道自体よりも両サイドの建造物と道とのかかわり具合が気になってしまいましたよ。

写真4
そしてあっというまに坂を下り、坂下あたりより坂上のほうをみたものです。(写真4)
こうしてみると距離が長いこともあってなだらかな感じに見えてますけど、坂道自体はけっこうな勾配具合がありました。
あとは手前のぐぐぐと急にカーブして下っている感じが、なんていうかこの上野界隈の雰囲気というよりは東京郊外やら神奈川のほうにありそうな雰囲気で(かなり個人的な思い込みですけどね)、ちょっとした違和感があったかもです。
それと手前の木ですかね。
坂上からの写真をみればわかりやすいですけど、なぜかポツネンと一本だけ植えられていて、しかもかなり元気よく育ってますね。
ここに昔からあったんではないかと妄想してしまうくらいの馴染み感があるかもですね。

写真5
というわけこれが最後の写真です。(写真5)
びっくりなことにこれはJRと反対側から車坂を眺めたものなのですよ。
木がじゃまして見えにくですけど、斜めに高架らしきものがあるのが見えていますよね。
よくある高架下の風景ってやつです。
どうりで坂道全体になんだか変な違和感があったというかなんというか・・・。
ただかつての車坂は予想通り今の様子とちがったらしく、江戸東京坂道事典によると、
『本来の車坂は明治一六年に上野駅が建設されるにあたってその敷地となって失われた坂で、文久の江戸図をみると、屏風坂の南にあって下谷車坂町へ下る坂道であった。車坂と車坂門との間を横貫していた道を下寺通りとよび、寛永寺の下寺がたくさん並んでいた。』
とあり、実際のところ、今の車坂は昔と別物の坂道と言ってもいいのかもしれないですよ。
そして最後の最後に(こちらも江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど)、この近くで少女期をすごした樋口一葉の明治24年の日記の抜粋や関連する歌でもどうぞ。
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車坂下るほど、ここは父君の世にゐ給ひしころ花の折としなければいつもおのれらともなひ給ひし所よと、ゆくりなく妹のかたるをきけば、昔の春もおかげにうかぶ心地して、
山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ
地図
台東区上野7