今回は「道玄坂(NO.191) 」の続きです。
そんなわけで坂の中腹より。

写真1
前回最後の場所よりさらに坂上のほうへ上り、坂下のほうを眺めたものです。(写真1)
もうこのあたりまでくると、繁華街度はうすれて、坂下と比べるとはるかに落ち着いた雰囲気になってきているようでした。
あと、ちょうど街路樹がきれているあたりの奥のほうにはちらりと渋谷マークシティーの高層ビルが見えていたりしますよ。

写真2
せっかくなので坂道側から、ちょうどマークシティーがよく見える位置でぱちりと一枚。(写真2)
個人的には、ビル足元にあるマークシティーの駐車場にいくためのスロープが坂道に見えてきてしかたないんですけどね。(笑)
それはさておき、なんというか、渋谷駅まえあたりでは、アイレベルで意識しないでちらりとでもこのビルが見える場所は、あまりないと思われるわけで(意識して見上げればみえるところはありますけど)、そういう意味では「マークシティー」ときくと、名前のイメージやら中のお店や会社なんかのイメージを強く思い描くビルかもしれないかなあと思ってみたり。

写真3
そして、よくみると駐車場へ行くためのスロープの左隣にこんな青系オブジェ(龍というか蛇というかうねりというべきかわかりませんけどね)の通路がありましたよ。(写真3)
誰がデザインしたかまではさらりと検索しただけではわからなかったのですけど、こういうオブジェといえば、アート作品をみんなに見てもらおうという意図みたいなのが、まあメインなねらいだとおもいますけど、実は(話すと長くなるのであれですけど)、排除系オブジェ(詳しく知りたい方は「過防備都市」なる本をパラリと読んでみてくださいな。)なんてのもあるみたいで、以外といろんな意味というか役割を与えられている場合も多いみたいですね。
(ここのオブジェもそうなのかどうかはいまのところ不明です。)

写真4
あと、このそばに(2枚目の写真の左下に見えてますよ)は、なんとも謎めいた“道玄坂道供養碑”なる石碑やら坂にまつわる案内説明の案内板がありました。(写真4)
なので、その説明文もせっかくなので載せてみますね。
まずは樋口清之という学者の文が刻まれた石碑のほうには、
『渋谷道玄坂
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。 』
と書かれていました。
それと、もうひとつは与謝野晶子の歌碑なるものもありました。
『 母遠うて瞳したしき西の山
相模か知らず雨雲かゝる
歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三五年(一九〇二)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。
晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。 』
ウィキペディアの道玄坂のページや上の樋口清之の文にもあるとおり道玄坂と関わりのある文学作品はたくさんあるみたいなのに、なぜ与謝野晶子の作品だけが立派な案内板に書かれているのかは不明ですけど、なにか意味があるんでしょうかね。
ちなみに、いつもの坂の木碑もこのすぐそばにあって、(汗)
『江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。』
とありました。

写真5
そんなわけで、やっと坂上あたりまでやってきました。(写真5)
写真はさらに坂上のほうを見たもので、246号と首都高速の高架が見えていたりします。
あと、地図を見れば、一目でわかるんですけど、写真右側のほうが、これまた知る人ぞしる円山町だったりしますよ。
そして、ひさしぶりにアースダイバーをぱらぱらと読みなおしてみると、渋谷はまずこの坂の中腹あたりから発展したそうで、ひとつがこの円山町という花街の存在であり、もうひとつが、江戸の人たちにとって最大の信仰であった「富士講」の本部がこのあたりにおかれ、この地が富士登山への出発地となっていたことが、その大きな原因ではないかとことが書かれていましたよ。
(今の状況でアースダイバーを再び読んでみると、ここ以外にもこれまた昔と違った視点で読めておもしろかったですよ。このこともなんかの形で坂道さんぽにフィードバックできればなあと考え中です。)
ということで、歴史とからめると一冊の本ができるんじゃないかというくらい深い深い道玄坂ですが、また資料がたまってきたらなんかとりあげるかもしれないですけど、今回のところはとりあえず、こんな感じで勘弁ということでおねがいします。。
地図:渋谷区道玄坂
そんなわけで坂の中腹より。

写真1
前回最後の場所よりさらに坂上のほうへ上り、坂下のほうを眺めたものです。(写真1)
もうこのあたりまでくると、繁華街度はうすれて、坂下と比べるとはるかに落ち着いた雰囲気になってきているようでした。
あと、ちょうど街路樹がきれているあたりの奥のほうにはちらりと渋谷マークシティーの高層ビルが見えていたりしますよ。

写真2
せっかくなので坂道側から、ちょうどマークシティーがよく見える位置でぱちりと一枚。(写真2)
個人的には、ビル足元にあるマークシティーの駐車場にいくためのスロープが坂道に見えてきてしかたないんですけどね。(笑)
それはさておき、なんというか、渋谷駅まえあたりでは、アイレベルで意識しないでちらりとでもこのビルが見える場所は、あまりないと思われるわけで(意識して見上げればみえるところはありますけど)、そういう意味では「マークシティー」ときくと、名前のイメージやら中のお店や会社なんかのイメージを強く思い描くビルかもしれないかなあと思ってみたり。

写真3
そして、よくみると駐車場へ行くためのスロープの左隣にこんな青系オブジェ(龍というか蛇というかうねりというべきかわかりませんけどね)の通路がありましたよ。(写真3)
誰がデザインしたかまではさらりと検索しただけではわからなかったのですけど、こういうオブジェといえば、アート作品をみんなに見てもらおうという意図みたいなのが、まあメインなねらいだとおもいますけど、実は(話すと長くなるのであれですけど)、排除系オブジェ(詳しく知りたい方は「過防備都市」なる本をパラリと読んでみてくださいな。)なんてのもあるみたいで、以外といろんな意味というか役割を与えられている場合も多いみたいですね。
(ここのオブジェもそうなのかどうかはいまのところ不明です。)

写真4
あと、このそばに(2枚目の写真の左下に見えてますよ)は、なんとも謎めいた“道玄坂道供養碑”なる石碑やら坂にまつわる案内説明の案内板がありました。(写真4)
なので、その説明文もせっかくなので載せてみますね。
まずは樋口清之という学者の文が刻まれた石碑のほうには、
『渋谷道玄坂
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。 』
と書かれていました。
それと、もうひとつは与謝野晶子の歌碑なるものもありました。
『 母遠うて瞳したしき西の山
相模か知らず雨雲かゝる
歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三五年(一九〇二)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。
晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。 』
ウィキペディアの道玄坂のページや上の樋口清之の文にもあるとおり道玄坂と関わりのある文学作品はたくさんあるみたいなのに、なぜ与謝野晶子の作品だけが立派な案内板に書かれているのかは不明ですけど、なにか意味があるんでしょうかね。
ちなみに、いつもの坂の木碑もこのすぐそばにあって、(汗)
『江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。』
とありました。

写真5
そんなわけで、やっと坂上あたりまでやってきました。(写真5)
写真はさらに坂上のほうを見たもので、246号と首都高速の高架が見えていたりします。
あと、地図を見れば、一目でわかるんですけど、写真右側のほうが、これまた知る人ぞしる円山町だったりしますよ。
そして、ひさしぶりにアースダイバーをぱらぱらと読みなおしてみると、渋谷はまずこの坂の中腹あたりから発展したそうで、ひとつがこの円山町という花街の存在であり、もうひとつが、江戸の人たちにとって最大の信仰であった「富士講」の本部がこのあたりにおかれ、この地が富士登山への出発地となっていたことが、その大きな原因ではないかとことが書かれていましたよ。
(今の状況でアースダイバーを再び読んでみると、ここ以外にもこれまた昔と違った視点で読めておもしろかったですよ。このこともなんかの形で坂道さんぽにフィードバックできればなあと考え中です。)
ということで、歴史とからめると一冊の本ができるんじゃないかというくらい深い深い道玄坂ですが、また資料がたまってきたらなんかとりあげるかもしれないですけど、今回のところはとりあえず、こんな感じで勘弁ということでおねがいします。。
地図:渋谷区道玄坂
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