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前回の新富士坂(NO.180)の続きです。
おそらく、前回の坂道記事だけでは、あれれ?もうおわり?と思ったかたもいたかもしれないですけど、あまりに話が長くなりそうだったので、今日の第2段ということにしてわけみたわけですよ。

新富士坂(NO.180)その2_1
写真1

それで、まずはこれ。(写真1)
新富士坂(NO.180)の坂下からの眺めをおさめた一枚目の写真でも見えていたのですが、「道しるべ」なる道しるべです。(笑)
道しるべなので、他に言いようがないのですけど、隣に案内看板があったので、そのまま書き写してみると、
『江戸時代中期の安永八年(1779)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀沸、その左側にゆうてん寺道、右側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登リ麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。』
と書いてありました。
まあ、ここに書いてあることをそのまま理解すればいいんじゃないですかね。
ただ、「1779年に建てられたこの道しるべ」というのはすごく気になりますけどね。
(それと、これはお地蔵さんとは、また違うみたいですね。なんだか調べてみたくなってきましたが、それはまたいつか・・・。(汗))

新富士坂(NO.180)その2_2
写真2

これも坂の途中にあったものです。(写真2)
「馬頭観世音」というらしいですよ。
後ろのハイソな塀(壁?)とのコントラストがなかなかいい感じかもです。

そして、ここにも、なにやら案内看板が設置してあり、
『このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四(1719)年、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。そのお礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷�偃を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福に暮らしたとのことです。
 この道は目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。』
とありました。
なるほど、なるほど。。

とりあえず、こまかいことはおいておいて(汗)、気になることといえば、この坂道が、「目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道」という記載のところですかね。
道しるべの説明のほうでも、似たようなことが書いてありましたけど、この新富士坂(NO.180)は昔の主要道路だったんですね。
あとは、別所坂だったり、目黒新富士なんていう気になる名前がでてきますけど、このあたりのことは、目黒区の坂道めぐりを、またそのうちに始めたときにでも、取り上げてみようかなと思っていますので、少々お待ちください。

新富士坂(NO.180)その2_3
写真3

最後はおまけです。(写真3)
これも坂の途中で見かけた教会です。
閑静な住宅街のなかに、とりたてて目立つ感じでもなく、かといって、あまりにひっそりいうわけでもない、ちょうどいい感じでたたずんでいる姿におもわずぱちりと。

地図
渋谷区恵比寿南3