ほんだ坂とよぶそうです。
場所は、と言いたいところですが、今は現存しない坂です。
というのも、この坂道は、現在の赤坂御用地の敷地内を通っていた坂で、明暦3年末にこの後用地の場所が紀州藩の屋敷になるまでは、今の、新宿区南元町にある鮫河橋から東南の方向にある赤坂4丁目のほうに通ずる道があったらしく、それが誉田坂の道筋にあった坂道なのではないかと言われています。(ちなみに、このことは、いつもお世話になっている”江戸東京坂道事典 ”を参照させていただきました。)

写真1
なので、誉田坂の坂上か坂下かわかりませんが、坂の端っこに位置する、鮫河橋坂(NO.143) の時の話でもでてきたかつての鮫河橋界隈でもあった「みなみもと町公園」の入口にあった案内看板に、当時の鮫河橋界隈の様子が描かれた江戸名所図絵なども案内文とあわせてあったので、パチリと。(写真1)
あと看板の案内文の中で、
「みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の土地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。」
という最初のほうの一文があるのですが(いちおう鮫河橋坂(NO.143)の中でも書いていますけど・・・)、いまあらためて読み直すと、もしかしたら、この鮫河は、はじめに書いたかつての誉田坂とだいたい並行に流れていたんじゃなかろうか、なんて、想像してしまいましたが、どうなんでしょうかね。。

写真2
もう一枚は、せっかくなので、赤坂4丁目方面(というか青山通りですけど・・・)からみた赤坂御用地の様子など。(写真2)
といっても、ただただ当時の坂道のイメージなどをこの風景から想像するしかないんですけどね・・・。(笑)
地図
港区元赤坂2あたり
場所は、と言いたいところですが、今は現存しない坂です。
というのも、この坂道は、現在の赤坂御用地の敷地内を通っていた坂で、明暦3年末にこの後用地の場所が紀州藩の屋敷になるまでは、今の、新宿区南元町にある鮫河橋から東南の方向にある赤坂4丁目のほうに通ずる道があったらしく、それが誉田坂の道筋にあった坂道なのではないかと言われています。(ちなみに、このことは、いつもお世話になっている”江戸東京坂道事典 ”を参照させていただきました。)
写真1
なので、誉田坂の坂上か坂下かわかりませんが、坂の端っこに位置する、鮫河橋坂(NO.143) の時の話でもでてきたかつての鮫河橋界隈でもあった「みなみもと町公園」の入口にあった案内看板に、当時の鮫河橋界隈の様子が描かれた江戸名所図絵なども案内文とあわせてあったので、パチリと。(写真1)
あと看板の案内文の中で、
「みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の土地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。」
という最初のほうの一文があるのですが(いちおう鮫河橋坂(NO.143)の中でも書いていますけど・・・)、いまあらためて読み直すと、もしかしたら、この鮫河は、はじめに書いたかつての誉田坂とだいたい並行に流れていたんじゃなかろうか、なんて、想像してしまいましたが、どうなんでしょうかね。。
写真2
もう一枚は、せっかくなので、赤坂4丁目方面(というか青山通りですけど・・・)からみた赤坂御用地の様子など。(写真2)
といっても、ただただ当時の坂道のイメージなどをこの風景から想像するしかないんですけどね・・・。(笑)
地図
港区元赤坂2あたり
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