下町と山の手ってよくききますよね。

いまは、これらの言葉を聞いてもあまりピンときませんが、かってはけっこう明確にわかれていたらしく、とくに坂上と坂下における、地域社会の社会文化、すなわち、坂道を上がるか下るかによって、明らかに、坂上の「山の手社会」と坂下の「下町社会」がつくられてしまっていました。
そういう意味では、江戸・東京では、坂は街の歴史、生態に大きな役割を与えてきたといえます。

水上瀧太郎の「山の手の子」という小説におもしろい一文があります。
“「下町」には西洋の帽子やリボン、西洋押絵を売っている唐物屋がある。通りでは子どもたちが独楽やメンコで遊んでいる。「私」は彼らと遊びたいと思うのだが乳母に「町っ子とお遊びになってはいけません」と禁止される。「私」は仕方なくひとりで庭で遊ぶ。そしてある日、庭の奥まで行ってみる。そこは崖になっている。崖の上に立つとすぐ下に坂下の町が見える!「私」はその発見に興奮し毎日のように崖のところへ行く。そして崖の下で遊んでいる町の子どもたちと親しくなる。とりわけお鶴という魚屋の娘に淡い恋心を抱く。年上のお鶴は「私」を可愛がってくれる。しかしやがてお鶴が隅田川のほとりの町(向島あたり)に芸者の子としてもらわれていくことになり幼い恋は終わる。「私」と坂の下の町の関係も終る。坂の上と坂の下が歴然と別れていた時代の物語である。”
 
この著者水上瀧太郎は、明治20年東京麻布区飯倉町生まれで、父は日本最初の生命保険会社明治生命を創設し、福沢諭吉の門下生、母は山形県鶴岡藩士の娘という家庭で育った人だそうです。
まあそういうことで、著者はいわゆる良家の子供であり、この「山の手の子」はそのこども時代を描いた作品ということみたいですね。
でも、当時の下町とよばれた場所に住んでいた人による文献は,なかなかないこともあり、そういう意味では、明治時代の麻布においてということですが、坂(崖)上のお屋敷町と、坂(崖)下の下町との明瞭な文化の差が描かれていて興味深い小説ではあります。

(「東京を地誌る」より参照)