今年もこの日がやってきてしまいました。
毎年言っているような気がしますけど、早いもので、もうあれから19年ですか。

さすがにこれだけ期間が過ぎると、時々、当時のことを忘れてしまう時もあるのですが、やはりこの日(1,17)が近づいてくるといろいろと当時のことを思い出してしまうという感じです。

そんなわけで、今年も去年までと同様、正月に実家の神戸に帰省したこともあり、番外編という形でここ数年続けている阪神大震災関連の震災モニュメントや遺構巡りの話でもしてみたいと思います。

今年は去年および一昨年とけっこう重い雰囲気のところを回っため、すこし軽めの場所をと思っていたところ、昨年、ふととある情報から派生して知った場所に震災関連施設があることを知り、満を持して帰省の時に訪れてみました。


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写真1

それがこちらですね。(写真1)
いきなりでなんでしたが、これはJRの六甲道駅のすぐそばの場所にある「イタリア広場」と呼ばれる場所です。
芝生の向こうになにやら滑り台のようなスロープ風のオブジェが見えていますが、それが今回の目的地ですね。


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写真2

近くに寄ってみるとこんな感じでした。(写真2)
まさにスロープ。
でも右側にはベンチもあって休憩所のような場所も見受けられました。


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写真3

そして、裏側にまわってみると・・・。(写真3)
なんと坂道になっていました。
そうなのです。
昨年、この場所の情報を知ったときは、心底驚いたわけですが、こんな場所があったとは。
ただ、この裏の芝生広場では、写真1でもちらりと見えていましたが、地元の子供たちが楽しそうにサッカーなどをしていて、正月ということもあり、けっこうな人がいたんですけど、この場所にいたっては、ご覧のとおり、坂道内(というか広場内)には人がほとんどいませんでした。


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写真4

そして、なにか手がかりがないものかと、だだっ広いこの広場内を探索してみると、やはりというべきか、写真4のような説明プレートがありました。
そこには、『イタリア広場/
この広場を1995年阪神・淡路大震災の犠牲者に捧げます。
設計:ラウラ・マッシーノ建築士、バルバラ・アニョレット建築士
イタリア建築協会、外務省、イタリア文化省建築および現代美術局発起による日本におけるイタリア2001年記念広場国際設計競技優秀者』
と書かれてありました。

なので、このことから、ここが阪神・淡路大震災関連の場所ということがわかったわけですが、正直、こんな広場があったことも、国際コンペがあったことも知りませんでした。
ある意味、今頃になってちょっとショックを受けてしまいました。


19年_5
写真5

その後、すこしまわりをぶらつき、坂の部分から坂下方向にこの広場を眺めてみたものが写真5です。
広場は写真5の奥のほうで突然終わっています。
これは広場の向こうに国道2号線という大きな道路が走っているためで、逆にいえば、目の前に見えているスロープは、実際のところ坂道というよりは広場のオブジェという扱いとして捉えたほうがいいのかもしれないです。
(だからこんなところでスケボーなどしたら、国道に飛び出てしまい危険なのですよ。もちろん広場内にもそういう行為は禁止と書かれてありますけど。)


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写真6

せっかくなので、広場に入って、スロープ部分にも注目してみました。(写真6)
軽くこの広場について解釈してみると、やはりこのスロープは、神戸の海から六甲山へと続く斜面をオマージュしたものだと思われ(写真6の遠くに見えているのが六甲山です)、この広場の思いが天に向かってのびていくということもイメージできるのではないかとも思いました。
そして二つのスロープの真ん中の、抜け道のような隙間は、その向こうにかつては現実の神戸の痛々しい姿が見えたのではないかとも想像しています。

とにかく、坂の頂上あたりが山のほうを眺める展望台にもなり、写真2に写っていた休憩場所が展望台の下にあるように、この広場のスロープは海(南側)に向かって下る形をしているのでちょっとした日よけになったり、天気が悪いときは雨宿りなどができるのかもしれないですけど、やはり今の寂しい状況をみるとこの立地においての広場という役目をはたしているのかは疑問がつくものではありますかね。(ここよりだだっ広くて人のいないところもたくさんありますが、あくまでこのJRと阪神の2駅が隣接している駅前の人通りの多い立地での話です。)


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写真7

次は、スロープオブジェの裏側(山側=北側)に再びまわって、さっきすこしふれたふたつのスロープの隙間の通路から坂下方向(南側=海側)を眺めてみたものです。
見た目はすごくかっこいいのですけど、ほんとこの隙間はどういう意味でつくられたんですかね。


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写真8

そして、こちらが現地にあった案内地図です。(写真8)
上からみるとこんな配置だったわけですね。
広場の隣には灘区役所ですか。
なるほど。


そんなわけで、今回の現地体験もあり、僕自身、このような場所で、なんというか人を寄せつけない空気が漂う広場に出会ったのはひさしぶりだったので、気になってしまい、ネットなどでこの広場ができた経緯などをすこし調べてみました。

すると、「EXPO 2005 AICHI,JAPAN」のサイト(http://www.expo2005.or.jp/jp/N0/N1/N1.6/N1.6.564/)にて、このイタリア広場のことが取り上げられていて、それによると、阪神大震災のために壊滅的な被害を受けたこの六甲道エリアの再開発のため、神戸市は再開発をまかせる建築家を選ぶ国際コンテスト(たぶんプレートにあった日本におけるイタリア2001年記念広場国際設計競技優」)を開催したそうで、そこで選ばれた2名のイタリア人女流建築家(ラウラ・マッシーノさんとバルバラ・アニョレットさんかな?)とその依頼を受けたアッソピアストレーレ社が、エミリアロマーニャ州の協力をへて「イタリア広場」を建築し、神戸市へプレゼント(寄贈でいいのかな?)することにしたそうです。
ただ、ここに書いてあった内容だけでは、このエリア全体においてイタリア人の建築家の方々が関わったかどうかまでは不明でした。
あと、この六甲道エリアは阪神大震災のために壊滅的な被害を受けたと書きましたが、実際のデータは、震災時、660世帯約1400人が住んでいて、家屋276棟のうち65%が全半壊したとのこと(ブログ: 越澤明(越沢明)と都市政策、歴史・文化のまちづくり、日本再生http://blog.goo.ne.jp/cityplanning2005/e/3f7b50d15da7b8f9050d75d079122f47より)。

ちなみに、「日本1000公園」(http://nippon1000parks.blogspot.jp/2012/07/651000.html)というブログに、このイタリア広場が計画された当時の経緯などが記録された神戸新聞の記事の抜粋を載せていらしたので、すこし引用させていただきます。
『2002/02/18
 神戸市灘区で進められているJR六甲道駅南地区震災復興再開発事業(五・九ヘクタール)で、防災公園の一角に、イタリアの都市のイメージを取り入れた広場がつくられることになった。「日本におけるイタリア年」を記念し、日伊の建築界が協力。基本デザインは、両国の若手建築家から、国際アイデアコンペ方式で公募している。 コンペは、昨年の「イタリア年」を機に、「日本におけるイタリア2001年財団」が日本側に呼びかけ、神戸市の協力で実現した。 駅南地区では、超高層ビルなどに囲まれる形で、芝生や樹木を中心とした〇・九三ヘクタールの公園をつくるプランが、まちづくり協議会などの参加で決まっている。広場予定地は公園の南端で、国道2号、移転予定の灘区役所に面し、南の玄関口にあたる約〇・三ヘクタール。 イタリア側は現代的な都市広場をイメージ、石材などを提供する用意もある。だんじりが集まる空間や、バリアフリーなども条件という。 公募の対象になるのは、一九六五年以降に生まれた日伊の建築家。審査には、建築家の槇文彦氏、安田丑作神戸大教授、オルセー美術館を設計したガエ・アウレンティ氏らが当たる。発表は六月。最優秀作に一万ユーロ(約百二十万円)が贈られるほか、神戸、東京などで開く「イタリア建築展」で作品展示する。 イタリア建築フォーラム日本実行委の理事を務める井口勝文京都造形芸術大教授は「有望な若手建築家を見いだすチャンス。イタリア側は神戸に親近感を持ち、復興に貢献したいと期待している」と話す。募集要項はホームページhttp://www.piazza-italia.org/』
(注意:参照先のブログで取り上げている神戸新聞のホームページでは、すでに該当する記事が削除されていたため、この抜粋がきちんとしたものかどうかを知るには、当時の新聞をあたるしかないので、あしからず。)

そうなんですね。
今、東京の国立競技場で話題の人でもある槇文彦氏も審査員だったのですね。


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写真9

最後に、もうすこし俯瞰的な絵もあればと思い、イタリア広場の北側にある六甲道南公園からの眺めを納めたものなど。(写真9)
こうしてみると坂道オブジェ、なんかかっこよかったです。
しかもこの手前の芝生公園自体が微妙に坂道というか傾斜しているのもまたこの場所らしいなあというか。
でも実はこの傾斜だけが当時の場所の記憶みたいなものを伝えているのではないかとも思ったのでした。


ということで、今年の六甲道の「イタリア広場」への訪問、実際に歩いてみて思ったのは、なぜここに「イタリア広場」だったのか?という疑問が先行して、もしかして理屈で震災関連施設(モニュメント)と呼んでいるだけのような気もしたのですが、ある意味、こういう場所もあるんだと学ぶこともできたわけだし、今後この場所が地域にどうなじんでいくのかも見所のひとつなのかもしれないので、それはそれで意味のある貴重な震災遺構の旅(散歩?)だったかもです。