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所在地:文京区湯島3

さねもり坂と呼ぶそうです。
場所は、ガイ坂(NO.183)のすぐ北側に位置し、坂道沿いにさらに北へてくてくと歩くと、実盛坂の坂下あたりにやってきます。

実盛坂(NO.184)1
坂上より

坂上からの風景です。
かなりの急勾配の階段坂道ですかね。
高低差も、ものすごく、ここから見るぶんには景色も以外とひらけている感じでしたよ。
それで、ふと写真をじっと眺めていて、気がついたんですけど、あまりの急勾配具合のためか、電柱が両サイドになく、なんだかすっきりした印象がありつつ、坂下の家々も低層で、ちょっと懐かしい感じというかよくありがちな、まちなかの住宅街といった雰囲気でなんだかおもしろいなあ思いつつも、もうひとつの自身の視点というか、建築を学んだ身としての目線(ちょっと冷めてるというか冷たい目線ですかね)としては、なんだかひとつひとつの家々の形も違うし、上からみるとそのごちゃごちゃ感がさらに際立ち、こりゃあ一体どうなってんだろう?なんて、思う自分もいたりして、なんだか分裂病になりそうな気分になってしまいましたよ。。(笑)

実盛坂(NO.184)2
坂の途中より

そして、階段の中腹あたりにきて、坂上のほうを眺めてみました。
この短いあいだに、おそらく一階半くらいの高低差を下りてきたと思われますよ。
しかも、この高低差と両サイドのビルのおかげで、なんとなく狭苦しくて、薄暗く、ちょっと寂しい感じがただよっているなあと思ってしまったんですけど、どうなんでしょうかね。

実盛坂(NO.184)3
坂下より

最後は、一気に坂下まで下りて、坂上のほうを見てみました。
こうして、あらためてみると、三階半か四階分くらいの高低差がありそうですね。
なんていうか、手摺だけピカピカ光っていて、階段自体がどこか古めかしい感じというかただ古いだけなのかわかりませんが、なんともいえないあじわいをだしているような、ないような・・・・。

ちなみに、ここには、いつものような坂の案内板があり、
『「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
 湯島の”実盛塚”や”首洗いの井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。』
とありました。
「”首洗いの井戸”の伝説」なんてのは、ちょっと気になったので、調べてみたんですけど、あまりうまいのがでてこなかったなか、いつもお世話になっている江戸東京坂道事典に、『坂下の南側一八番あたりに、むかし斉藤別当実盛の首塚があったと伝えられ、その塚をあばいた人々は祟りをうけていずれも怪死したという話までがつけ加えられている。』と書いてあったので、おそらくこのことなんでしょうかね。
ということは、今も残っているということなんですかね?それとも建物の下になってしまったのか(汗)。
ということは(←しつこい・・・)、その土地をならした人たちもしくは工事した人たちは、祟られたんですかね?

と、余計なことを妄想してしましたよ(汗)。。

地図
文京区湯島3